「ティアマトの星影」に係る備忘録 その1

○はじめに

 シナリオを書き終えたのがもう十ヶ月ほど前になろうかという作品なのに、どうして心は囚われたままなんだろう。
 たぶん、自分の未熟さゆえ、プロジェクトとして完遂することができなかったからだと思う。作品の発表後、自分のなかで長いこと情熱が失われてしまい、やりたいことがぜんぶできなかったから。
 じゅうぶん開示しきれていない設定や、構想だけはしているサブシナリオなど、心残りはシナリオ方面だけでも枚挙に暇がない。
(そのぶん、サウンド関連やPV等の広報の面でプロジェクトを展開してくれた音楽担当のけいゆうには感謝してもしきれない)

 発表から数ヶ月が経った今、ようやく気持ちの整理がついてきて、作品のことを客観視することができるようになったと感じている。
 そのぶん細部のことを忘却しているし、かつてのように熱をあげて入れ込むことはできないけれど、原作を担当した自分だけしか語れないこと、シナリオ全体を手がけた自分が語りたいことをそのつど見つけて、整理しきれない箇所はそのままにしつつ、この作品のことをこれ以上忘れないよう、ここに記していければと思う。
 何よりも自分のための備忘録ゆえ悪文乱文目立つところが多いと思うけれど、ご容赦ください。また、自分のためとは言うけれど、「ティアマトの星影」のことを好きになってくれた人たちが読んでもなんとなく楽しめる程度のものを書かなきゃな、と思う。そういう感じで緩くやっていきましょう。

 ※いちおう「ティアマトの星影」のネタバレが入っているので、気になる人は注意です!


○滲み出る諦念、深い断絶、繋がりという「錯覚」

 本作の公開後、想定より多くの方々が感想を寄せてくれた。
 自分で観測できる限りの感想はすべて読ませていただいたし、何なら公開後数ヶ月はほぼ毎日SNS上で作品名でサーチしていた。それほどまでに、ドキドキしていた。嬉しかった。星の光が届いたんだと錯覚することができた。

 だけど、多くの感想は、この作品がもつ構造的な欠陥には触れないでいてくれたのかもしれない。

 あくまで個人の感想として、この作品の結末は、企画当初思い描いていたほど優しい物語にすることができなかった。書き手の力量不足によるどうしようもない帰結として、そうなってしまったと言わざるを得ない。

 青年は、あれほど切実に誓った約束を忘れ去り、無意識に湧き上がる悔悟の念を忘却の彼方に押し込んだまま日々を暮らした。
 少女は、あれほど追い求めた存在を身も心もすり減らす旅路の果てに見失い、それでも「星の光」を探し求めて暗闇の中を泳ぎ続けた。

 そして、ふたりが「再会」するシーン。当初のプロットでは、ここで青年がすべてを思い出し、感動のうちに再会することになっていた。
 だけど、シナリオを最後まで書きながら、どうしてもそうすることはできなかった。
 理由はいろいろあったと思うけど、今となってはどれひとつ思い出せない。だけど、確かに「Space」でふたりの物語は終わった。そして青年は、「青年」としての彼は、あのとき確かに死んだのだ。
 だから、彼を蘇らすのはフェアじゃないと思った。たぶん、そういうことだったのだろう。

 だから、結果的にふたりは「再会」していない。ただ、あたかも「再会」したかのように振る舞い、または書き手によってそう演出されていたに過ぎない。
 あるいは、ふたりはお互いに「再会」したのだ。お互いに対する、自分自身の思い出の幻影に。

 ふたりはそれぞれ思い出の欠片を追い求め、結果的に「再会」した。今まで抱いていた大切な思い出の象徴である相手に感謝の言葉を伝え、そして別れを告げる。
 そこには、もう二度と逢えないという深い諦念が横たわっているのではないか。自身の思い出を他者に照射しているだけで、そこにいる他者とは絶対に通じ合うことができない、圧倒的な断絶が横たわっているのではないか。

 そう思っていた。

 読み返して思う。そう断じるのはフェアじゃないと。
 また、読み直してつくづく思う。作品理解が足りてないのは実は書き手の方だったね、と。

 本作の大事(だと書き手が勝手に思っている)なテーマとして「錯覚」がある。
 胸の内にわだかまるこの感情は、ただ己の身体がそのように勝手に反応しているだけの「錯覚」ではないか。
 目の前に居る相手と想いが通じ合ったというこの感覚も、自分がそう思い込んでいるだけの「錯覚」に過ぎないのではないか……

 そんな恐れに、それでも眞都たちは答えを見つける。

 たとえ錯覚だとしても、自分が抱いているこの感情は本物なんだ、と。

 だから、ふたりが「再会」したシーンも、ふたりが信じている限りは本物だ。
 たとえ、青年としての彼がもう二度と戻らないという覆い隠せない悲しみが見え隠れしようと、かつてのようにはいられないという深い諦めが身を衝こうと、ふたりはあのとき確かに「再会」したのだと思う。

 「錯覚」も、それを信じられる限り、その想いは本物だ。そして、想いが向かう先に「星の光」が燦めく。「錯覚」は想いの源泉であり、想いは「祈り」のように対象へと向かう。それはまるで「信仰」のごとき在り方である。
 「ティアマトの星影」における他者とは、自己と圧倒的なまでに断絶する隔たった存在であり、決してわかり合えない(相互理解が望めない)存在であり、それでも届けと祈らずにはいられない、ただひたすらに純粋な想いの向かう先としての「信仰」の対象、つまり「星の光」として措定される。

 整理すると、本作における「お互いに想い合っている」状態というのは、遠く離れた「星の光」に想いを馳せる一方通行の「祈り」に他ならず、「もしかしたら、相手も自分のことを想ってくれているのかもしれない」という「錯覚」の上に成り立つ図式である。
 この図式は本作だけに当てはまらない。人間関係は、なべてこうした「錯覚」の上に成り立つ共同幻想であると言っても過言ではないんじゃないかな、と思わなくもない。

 明言するが、それは決して悪いことではない。そういう想いのもと、自分はこの物語を著した。

 話は戻るが、ふたりが「再会」するシーンは、上記の想定を考慮に入れると、それほどネガティブに読む必要はないのだろう。
 「Space」で一緒に過ごしたふたりは、その思い出を糧に(やや後ろ向きとはいえ)前に進んでいく。そして、「再会」するシーンで、相手に照射された「思い出」に、今まで自分を支えてくれた思い出に感謝を告げ、改めて前に進んでいく。
 アーティスト・fhánaが「It's a Popular Song」で歌っているように、僕たちはみんな思い出の虜だ。宝物だった何かを、いつかのどこかでなくしてしまって、もう取り戻せない。だけど、なくしてしまった日々もいつか思い出となって、たとえ忘れてしまったとしても、新しい道行きへと一歩を踏み出すための道標となって、胸の内に光り輝くのだろう。

 かつて、ふたりで一緒に過ごした思い出が、そして、この星でそれぞれ出逢った大切な人々との思い出が、ふたりの行く先を照らす星の光になる。
 孤独だけど、ひとりじゃない。

○おわりに

 長くなってしまったが、「Space」から続くふたりの関係について整理させてもらった。
 当初は「いや、慧斗と眞都のメインの筋にとっては彼の存在は邪魔でしかないなんじゃないか?」という懸念もあったし、実際にメンバーから心配する声も聞こえてきたが(なにぶん美少女ゲームのフォーマットに則っているので)、企画の最初期の形であるふたりの関係を決して崩してはいけないという一念で、本作はこのような形になった。
 未プレイの方は、楽しみにしていただければ幸いだ。

 次回についても、備忘録に残したいことをつらつら書いていくことになるかと思う。が、語りたい作品が山ほど溜まってるので、そちらについて語るかも……(「五等分の花嫁」について語らせてくれ、頼む!!)


○余談:構造的な円環

 完全に余談として、本編では明示することのなかった時系列について大まかに。超ネタバレ注意。

 ※いずれ書かれるかもしれないサブシナリオのネタバレも若干含むので、どこまでもまっさらにいたい人はそのまままっさらな君でいてくれ。


●約1000年前 彗星が御浜山に墜ちる。宇宙クジラが眞都という存在に再構成された際、残った身体は彗星となって縁の深いこの地に墜ちる。
 これにより、宇宙クジラの身体に宿る星の記憶の作用が強く働くことで異界との境目が淡いになり、御浜の地は位相的に不安定になってしまう。子どもが違う位相に迷い込むことも多発し、神隠しも多くなる。要するに土地が霊的な力でヤバいことになる。

・やべえやべえと騒ぎ立てる村人たちの前に、蒼い髪の乙女が降臨。どう考えても成長した眞都ですありがとうございます。これについては後述。

・柳花のご先祖様・桐花が申し出て、眞都の精神をその身に宿して魔を祓う「憑坐」となり御浜に平和をもたらす。いろいろとドラマあり。外伝書きたい。

・眞都、宇宙へ帰る。彗星が御浜の地にある限り霊的にヤバいことには変わりないので、以来桐花の一族が魔を祓うお役目を担う。つまり現代でも……


●30年ほど前 鍵村紫堂、子どもたちとともに御浜町に移り住む。「人の心の鍵を開ける」と言われ、不思議な力を持つという鍵村の一族。「人を感動させる」という一種の才能の延長としての能力であり、感受性の強さゆえの特性。芸術方面に強いのはこれによるか。ごく一般人と変わらないが、それでも稀少とされ過去にもいろいろあったらしい。観阿弥・世阿弥といった芸能の一族の流れを汲んでいるのではないかという一考察(「河原者」の流れ……?)。外伝書きたい。


●20年ほど前 名もなき青年が御浜山の頂上で倒れているところを見つかる。鍵村家に引き取られ、後に末の娘と結婚、婿入りする。
 彼がこの地に墜落した理由は、縁の深い彗星に導かれて。卵が先か、鶏が先か。誰にもわからない。


●10年前 鍵村永夜さんの病死。このとき双子は7歳。遠枝の心に暗い影を落とす出来事のひとつ。


●同じ頃 海野詩織(6歳)、夜の御浜山の頂上にて宇宙クジラと出逢う。どう考えても成長した眞都。人生に絶望した詩織を見るに堪えず、苦しみを引き受けるために眞都は詩織とリンクする。結果として、同時に「星の記憶」へのアクセス権が詩織に付与される。慧斗とは違いその権能を自覚する詩織だが、世界の美しさに魅せられた詩織が選んだのは、この世界を偽物として断じること、そして、「星の目」によって繋がりを感じられる異界、この世ならざる世界への憧憬だった。


●少し経った頃 詩織、異界の門を開き、あちら側に渡ろうとして失敗。


●同じ頃 柳花(7歳)の妹・楓花(4歳)が神隠しに遭う。先の事件との関連性は不明だが、異界に囚われたと考えるのが自然だろう。これにより、柳花を除く周りの人々の記憶から楓花の存在が消える。柳花、とてもしんどい。


●7年前 慧斗(10歳)の両親(水瀬恒河、輝夜(旧姓鍵村)のふたり)、交通事故により死亡。自動車に同乗し、ひとりだけ生還した慧斗に拭いきれないトラウマを植え付けかけるも、ふいに現れた不思議な女性(是非もなく眞都)が前述の詩織と同じ方法によりトラウマを和らげる。だが、より衝撃的な情景を目の当たりにした慧斗の無意識の防衛本能により記憶は断片化、無意識の領域に押し込まれる。「星の目」を授かり、成長した眞都と出会ったことも忘れてしまう。
 その後、鍵村家に引き取られるも彼らとの積極的な交流を避け、殻に閉じこもる。遠枝の心に暗い影を落とす出来事のひとつ。


●本編 星屑から再構成された少女、夜の御浜山の頂上に現れる。慧斗と出逢い、本編が始まる。
 本体である彗星とは1000年の時を隔てて同じ場所へ墜落。空間座標は同じだが、時間軸がずれてしまったと推察できる。


●本編 1000年の時を経て、宇宙クジラとして還ったティアマトが宇宙へ旅立つ。


●その後、成長した眞都(ティアマト)は長い旅路の途中途中に何度も地球へ訪れている。だが、次元の海を潜行するなかで、狙った時間軸へ到達するのは至難の業であり、別れた後の慧斗のいる時間軸にはなかなかたどり着けない(し、すぐに会いに行くのも恥ずかしいな~という考えのもと、慧斗のいない時間軸の地球へ訪れているんじゃないか疑惑の眞都)。結果的に、1000年前の過去で自らの行いの精算(彗星のせいで御浜の霊障が滅茶苦茶なんじゃ)をして桐花と交流を持ったり(なんか最終的には地元の神さまとして祀られる始末)、詩織くんの心に鮮烈な印象を植え付けたり、10歳の頃の慧斗のトラウマを引き受けたりすることに。
 その他、地球上の多くの場所に顕現している痕跡がうかがえる。「ジョナサンと宇宙クジラ」の作者であるロバート・ヤングも、もしかしたらティアマトを目撃していたのかもしれない。
 そもそも「ティアマト」という名称自体が地球上の古代神話に残っている。古代神話の原型となる物語は様々な文明で語り継がれ、聖書にもその名残がある(という)。なぜ「ティアマト」の名前が古代神話に伝わっているのか。彼女とはどのような関係が……

 楽しい想像は尽きない。


●エピローグ 成長した慧斗、数年ぶりに御浜町に戻ってくる。そして――


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