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[ 両刃の斧 ] 自分に向き合うことは難しい。けれどもできるだけはやく向き合わなければならない。

あらすじ

大門 剛明 (著)「両刃の斧 」(中公文庫)

15年前,刑事の柴崎は何者かに長女を殺される。その後,柴崎は病気で次女をなくす。退職後も事件を追い続ける柴崎。犯人の名を記した遺書がみつかり,柴崎や柴崎のかつての部下の川澄,そして警察も事件の真相にそれぞれの方法で近づいていく。

Prime video でも同名の映画あって,こちらもおすすめ。今回は映画版を見て思ったことをつらつらと書いてみます。


映画を見て思うこと

わたしたちは普段あえてみないで済ましていることがある。自分の仕事が忙しいからといって,となりの席の同僚の苦労をみてみぬふりしたり。親の介護がたいへんだからと,子どもの問題に向き合わなかったり。長女の大きな問題にふりまわされて,次女の問題には気づこうとさえしなかったり。いろんなものをいろんなところで,気づきながらも見て見ぬふりしている,わたしたち。

けれど,一番,見て見ぬふりをしている対象は,もしかしたら,自分自身かもしれない。自分の損得ばかり,自分が楽なように勝手なことをしてみたり,自己中心的にふるまっているひとであっても,いや,そういうひとだからこそ,自分ときちんと向き合っていない場合がある。映画で,川澄の携帯電話に妻からの着信。川澄はいやそうな顔でなかなかでない。川澄の娘が結婚式の準備をしている。いつが空いているのか川澄は妻に問われる。川澄は面倒臭そうに答えない。自分のしていることを邪魔されるのがいやな子どものよう。他人の様子をみたら,それが自分勝手な子どもの姿であることがよくわかる。でも,自分だとそうしている,川澄みたいに振る舞っている。

柴崎も悔いる。長女が相談できる父親であればよかった。次女の悩みに気づければよかった。ただ,わたしたちはみんなそうやって生きている。自分の生き方を邪魔されたくないから,家族であっても邪魔されたくないから,相談されないように,家族の苦しみに気づかないように生きている。自分,自分,自分。

そんな生き方で生き続けていて,そこになんの意味があるのか。やっている仕事が大切だから許されるわけではない。

家族の問題,自分の問題に直視できないのは,自分の弱さによることが多い。弱さとは何かが欠落している証拠。意志だったり,正義だったり,倫理観だったり,道徳であったり。それらのどれかひとつを欠いて,そのままで生きていて,それが人間の生活といえるのだろうか。

自分,自分,自分。人間は楽なほうを選んで生きる。楽なほうを選ぶとき,なにもしないことを選んだり,これまで大切にしてきたものを捨てることを選んでいることが多い。いくら生きにくいからといって,大切に守っていたものまで捨てるものだから,だからどんどん堕落する。問題が表面化しているとき,それはもうそういう生き方が間違っていることを表している。

自分の問題から逃げることはできない。だったら,意を決して向き合うしかない。いますぐには無理かもしれない。けれども,今,自分は逃げていて,この状況がまちがっていて,いつかは自分と向き合い,問題を解決していかなくてはいけないことに気づかないといけない。

この映画をみてそんなことを考えました。


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