ちょっと見直す

 例大祭二日目の朝。足が痛いです。

 先週noteの使い方を変えてから更新頻度が高くなったけど、ちょっとまた考えさせられる文章を(例大祭で買った本に載ってた内容から)見つけた。

■2005年09月05日(月)  私が想像するより遙かに素晴らしい
 昨日、あんな感じで実験的にコメントを書き込めないようにしてみましたが、その後何名かの匿名で書き込んでいた方から、自分の素性を明かしメールを頂きました。
 匿名の時の書き込みとはレベルが遙かに違う、熟考に熟考を重ねた文章であり、内容は素晴らしい物でした。

 それは、文章の内容を考えることの大切さを感じたことでしょう。気楽な発言では、思いついたことを書き込んでしまい、つい感情的になりがちです。
 感情的な発言は、熟考された相手の意見を無に還す無礼な発言であり、反対に相手の不用意な意見を誘う。そんな場所で残る物は嫌なしこりだけであり、何も生み出さない、創作的では無いのです。

 自分を賭けて文章を書くとき、これは本当に正しいのかな? 相手は本当に間違っているのかな? いや自分は正しい筈だよな? ただ単にあいつが気にくわないだけじゃないのか?
 と何度も何度も考えるのです。考えている内に新しい意見が見つかることもあるし、感情的な発言は吹き飛んでしまう。

 この熟考された意見同士の対話には、どんな批判的な内容であろうとも嫌なしこりが残ることはない。それどころか、爽やかな、前向きな気分にすらなれる。

 今回メールで返答してくださった方々は、匿名で書き込んだのと自分の言葉でメールで書いたのとの差を実感したことでしょう。メールの方が書き辛く、そしてよく熟考したことでしょう。
 ですが、書き終わった後にしこりが取れたような爽やかな気分になれたことだと思います。その経験は将来、その方達にとって必ずプラスになると信じています。

 自由に意見できる事と気楽に意見できる事とは、全くの別物です。気楽に意見できる事で、思慮に欠けた意見によって自分の意見が阻害され、結果として自由が奪われる。
 反対に、書きづらい、書くことに時間が掛かる内容ほど、考える時間が増えて自分に自信を持ち、自由に発言出来る。真に発言の自由がある世界は、気楽に発言できる世界には存在しないのです。


 ここだけの話、昔私もよく怒られたんですよねー。子供の頃から親や先生や坊さんに、「何でもかんでも口答えするな」って。その頃は大人だからって五月蠅い。と思ってましたが、考え無しに口答えするなって事だと、今になって思います。

東方書譜(現在は閉鎖)より。ZUN(文章は以下より転載)

 確かにこれにしろTwitterにしろ、思ったことをすぐ発信できる世の中だ。その発言で誰かを傷つけることになるなと。

 この文はサークル「アル雀点五」さんの『幻創と神主』という本に載ってて知ったものだ。
 この本は神主ZUNについての考察をまとめてあり、神主研究が日課(?)の(ゆっくり研究はどうした)私にとっては非常に面白いと思ったので昨日の例大祭で購入した。

気楽に発信すること

 話を戻して。
 気楽に発信できることで大きな戦争になることは、表現規制論の件で私も見ている。もはやあれは揚げ足取りに近いが、気楽に発信することで魚拓がとられ、ツイ消しをしても残り続ける……というループになっている。

 私もたまにTwitterで意見がぶつかる時があるが、感情論を入れず「私はこう思います」などと意見を言う人と議論するときは、意見を尊重されていて、私も意見を尊重しようという気になるのでとても気持ちが良い。

 神主は、結果的に自分が正しいのか正しくないのかではなく、その考える過程に意味があるのだろうと、そこに尊重が生まれ、価値となると言っているのだと思う。言われてみれば神主はずっと結果よりも過程を重視している。この考えも、その神主なりの根本的な考えがもとになっているのだろう。

熟考する

 ブログのような雑記としての使い方自体は変わらないが、私はnoteのつぶやき機能は使わないのだから、もっと塾孝してから記事を投稿するようにしよう。


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