コロナ禍での「新しい日常」の言説はなぜ戦時下のようなのか

以下一部抜粋
コロナ禍での「新しい日常」の語られ方は、まさに、戦時下の近衛新体制の中で日常が政治的にデザインされていく過程と極めて似ていた。まるで知っていて繰り返しているように見えました。コロナを戦争に例えることによって、戦時下の思考や言葉を無自覚に引き寄せてしまうように思えました。

感染症なのだから、感染症対策をしなければいけないのに、「コロナとの戦い」と言ってしまった瞬間に、例えば「医療関係者にエールを」というのが、銃後で「兵隊さん、ありがとう」と言うのとどこか似た響きをもつ。それが、コロナ禍の中で、まさに浮き彫りになっていった。
戦時下の言葉を呼び起こすことで、戦時下を無自覚に模倣してしまっています。

新しい日常を設計し直そうという機運の中で、日常のデザインのひな形として、過去が呼び起こされてしまっている。「日常」、「暮らし」、「工夫」だとか、そういった言葉が、実は戦時下に頻出していた言葉だということ自体が広く知られていません。

以下一部抜粋
「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」を政治が言い出すとき、碌なことにはならない。そのことはやはり歴史を振り返れば明らかなのだ。
なるほど、かつての戦時下と違って私たちは「ステイホーム」しながら、日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげ、この機会に断捨離を実行し、私生活を豊かなものにしようと工夫をしているではないかと言う人がおられるだろう。マスク、トイレットペーパーに続き、パンケーキ用の小麦粉が品薄となり、東京都は「こんまり」動画を配信し、家庭菜園が人気だとニュースが報じる。webでエクササイズもあれこれと配信される。飲食業の自粛に伴うフードロス問題にも熱心だ。その一つひとつは悪いことではない。
しかしそれでも引っかかるのは、それらが、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」とセットになって求められている、新しい日常や生活の一部である、ということだ。私たちが「日常生活」に求める豊かさは、コロナ政策の「実践」の場になってしまっている。
ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。本当に気持ち悪い。

花森が戦後『暮しの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。
だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。

以下一部抜粋
なるほど、「自粛」そのものは、治療薬やワクチンといった医学的な対応が確立されていない時点では「正しい」ことなのだろう。しかし、その「正しさ」とともにコロナ禍の当初は幾許か語られていた同調圧力への反発は姿を消している。
だが、その「正しさ」をもって、私たちはかつての戦時下、かつてのこの国の日常生活に当時の人々がつくりだした社会と同じ社会を再びつくりだしてはいないか。それは、本物の戦争や翼賛体制に似た社会を私たちに待望させてはいないか。自らファシズムを召喚する結果になっていないか。
だから、一見、科学的で異論の唱えようのない均一さに人々が従う様に、私たちの生活や日常の細部に入り込んだ現在の「暮しのファシズム」とでもいうべきものに、ぼくはアメリカのトランプ支持者とは違う立ち位置から、きちんと違和を感じ発語していたい、と思う。


どれも昨年、一昨年の記事ですが、あらためて読むとこの2年間の気持ち悪さが「政府が新しい生活を提案し、広告代理店が生活を設計し、国民が渋々というよりかは少し楽しみながら新たな生活に取り込まれていったこと」にあると感じます。

ここでは引用しませんでしたが、大塚氏によると戦時中もホットケーキを焼いていたそうです。正確にはカステラだったそうですが、「節約」し、「工夫」してカステラを焼くことが新体制への社会参加となる。これはお手軽な自発的動員であると。

また大塚氏は「鬼畜米英」といった勇ましさのある男文字ではなく、戦時用語にみえないような暮しに関する日常的な言葉が実は戦時用語であり危険なプロパガンダであるとして、それらを女文字と名付けたといいます。

「おうちじかんを楽しもう」
この2年間も私たちはお上に「非常事態だから」と言われて「どの程度の非常事態なのか」も考えることなく、パンケーキ作り、家庭菜園、ZOOM飲み会、オンラインライブ、ウーバーイーツ、どうぶつの森などを楽しみ、外に出られないなら出られないなりに「工夫する」こそが大切だということに多くの人がなんの疑いも持ちませんでした。

しんどい自粛生活を少しでも楽しいものにしたいという気持ちは大事なのですが、「ここまで行動制限されるのはおかしいのではないか」とか、「医療体制が整うまでの時間稼ぎという話はどこへいったんだ」といったことに対する怒りはあっという間に消え失せて、多かれ少なかれステイホームを楽しんでいたような気がするのが不気味でした。

さらに危ういと思ったのは「同じように楽しまない人への攻撃」です。自粛が長期化し、陽性者数の増えた2021年8月には、比較的誠実(だと私が勝手に思っていた)な人たちの口からも「ショッピングモールに行ったら物凄い人がいて怖かった」、「医療従事者のこと考えてないのかな」といった言葉が飛び出したのです。「あんたも出かけとるがな」の一言に尽きるのですが、新しい生活に楽しむことに疲れた人たちが「私はこんなに我慢してるのに!」と言い出した。こうした攻撃が「ウイルスに打ち勝つ」といった勇ましい言葉よりも「おうちじかん」という可愛い言葉から生まれていることと、それに無自覚であることが何よりも危ういと感じたのでした。


関連記事(芳田整体HP内に書いた記事です)
戦争責任者の問題
自分の中にある「戦前」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?