2015年の論文草稿の一部の改稿(未発表)

次の著書に収録予定の草稿

 小田実『何でも見てやろう』には、アメリカの芸術としての絵画、舞踊と並んで「音楽」ということばが出てくるが、積極的な言及がない。
 音楽も作曲家ということでポピュラーかどうかわからない(文庫版、56−57、105)。彼はピカソのゲルニカについて言及しているし、ビート詩人についても取り上げているわりにその表現には踏み込まない(57)。
 ビート詩人のケルアックの『路上』ではジャズに多く言及しているし関西フォーク運動はアメリカの詩人の活動の影響もあるはずなのに、この辺りは対照的である。小田は運動の中に音楽の持つ意味を十分認識していたであろうが、どこまで関心があったかどうかはわかりにくい。
 なぜこのように書くのかというと、ポピュラー音楽は「愛着」が議論される文化であるわけである。その温度差について述べておくのは無意味ではない。
 表現として音楽は芸術のように言及されるものではなかったのであろう。しかし、もちろん小田編集の「週刊アンポ」には、ほぼ毎号フォークのうたが掲載されていたのだ。

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