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【読書】『掌の中の無限』 マチウ・リカール&チン・スアン・トゥアン 著 菊池昌実 訳 新評論 2003年

この本は副題が「チベット仏教と現代科学が出会う時」となっていて、パストゥール研究所で分子生物学の国家博士号を取ったあと、チベット仏教の僧侶となったマチウ・リカールとヴェトナムで教育を受けた後フランス留学を希望したが、当時の政治情勢のためアメリカに渡り天体物理学を学び、ヴァージニア大学で天体物理学の教授であるチン・スアン・トゥアンとの対話である。

 現代物理学とチベット仏教というより、科学と仏教の対話とした方がいい(本書P30に「なぜ科学と仏教の対話か」)。
 結論から書くと、対話した二人が最後に書いた「科学者の結論」と「僧侶の結論」を読めば分かる。これでは余りに短いので補足として第15章「数学の神秘」か第16章「理性と観想」から最後まで読めば大筋は理解できる。
 それでは、ここまでは読む必要がないのか、というとそんなことはない。ただ、天体物理学から展開される、最新の物理学の知識と理解がないと、物理学からの仏教への問いかけについていけないと感じる。

 科学は「始まり」にこだわっている。例えば、宇宙は百数十億年前に起きたビッグバンで始まったとされている。しかし、既知の物理学はこの天地創造の瞬間にまでさかのぼることはできない。ビッグバンの瞬間から「プランクの壁」という10のマイナス43乗秒という誰も認識できないような短い時間分だけ天地創造の瞬間にいることができないのだ(P36抄訳)。
 一方、仏教では「始まり」はないという。現象が、非存在から存在へと移行するという意味で、「生まれる」ことはない。「天地創造」自体が間違った問題の立て方になるという。創造という問題は、人が現象を物象化するから出てくるものであるからだ(P39)。

 全体を通して、前記のような交わらない平行線のような話が続く。交わらない平行はユークリッド幾何学だが、非ユークリッド幾何学では平行は交わることはありうる。科学側の前提を捨てないと交わらない話に思える。

 この本は科学と仏教のどちらが優れているのか、という話ではない。科学側から、特に物理学の分野の中での自己矛盾の解決のために仏教の考えを取り入れないとうまく説明できない状態にあることも明かされる。しかし、前記のとおり仏教はあくまで人の認識の問題である、と突っ張る。

 この本を読みとおすのに2ヶ月以上かかった。
 ナイトキャップと呼んでいたが、寝る前に毎夜数ページずつ読んで眠りにつく、と言った状態だった。一気に読みとおすには難しい本であった。

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