宇宙・地球(1)天文学と宇宙観

天文学からはじめよう

自然科学への第一歩は天文学からはじめることにする。天文学は、天体の運行を記述することから始まって、現在では、宇宙の成り立ちを研究する学問となった。また、進歩の過程から現在まで、人間の世界観を塗り替えてきた学問である。

天文学の発展には、科学の進歩の段階と「巨人の肩に乗る」という自然科学の性質が良く表れている。ここでは、科学の段階的進歩と世界観の変革の一例として、「天動説と地動説」の議論と望遠鏡が明らかにしてきた「世界の大きさ」を紹介する。

天動説と地動説

地球から見た太陽やほかの天体の運行を説明する学説として、「天動説」が信じられてきた時代がある。17世紀末ごろに「地動説」がほぼ確かであることが受け入れられるまで、それは続いた。

天動説と地動説の意味するところは、天動説が、宇宙の中心である地球の周りをほかの天体が回転しているという考え(地球中心説)。一方で地動説が、太陽を中心として地球を含む惑星が回転(公転)しているという考えである。

どちらの説も、地球からみた天体の運動、星座の中を行き来する惑星の運動を説明するための、宇宙の成り立ちのモデルであった。

天動説の考え方は、現在から見ると、非科学的な根拠による学説のような印象を持つ。しかし、天動説が支持された理由には、当時の観測に基づいた科学的根拠も含まれており、当時の限られたデータと知識の範囲で現象を数学的に説明するるために考えぬかれた学説という面ももっていた。

一方で、地動説は、古代ギリシャ時代(紀元前5~4世紀)に提唱されていたものの、天動説に勝る科学的根拠をしめすことができず、その後1500年以上も顧みられない時代があった。

その後、16世紀に復活し、新たな高精度の観測と解析による法則性の発見、そして、ガリレオやニュートンらによる、物体運動の法則と万有引力の法則という物理学的な要素を得て、広く受け入れられるようになる。


天体の運行に関するモデルの歴史

暗黙の等速円運動:まず、観念的宇宙観として、後の研究に影響を与えたのが、紀元前5世紀のピタゴラス学派の宇宙観である。数学的な秩序が宇宙を支配しているとの考えから、宇宙の形や運動は、球や円を基本にしていて、その運動は等速円運動である、という観念論的モデルを示した。

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※参考動画【高校物理】 運動と力71 円運動の加速度 (18分)

このモデルは、プラトンアリストテレスのモデルにも引き継がれた。特に天体の運動が円運動である、という概念は、後にケプラーによる楕円軌道モデルが提示されるまで、どの天体運動論でも前提とされていたように、後々のモデルに大きな影響を与え続けることになる。

古代ギリシャの地動説:古代ギリシャ時代に、アリスタルコスは、三角測量の原理で、太陽と地球と月の間の距離の相対的大きさを見積もり、地球よりもはるかに巨大な太陽が、小さな地球の周りを回転するのは「不自然である」という、観測と直感から、地球の公転を主張したとされている。

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しかし、まだ物体の運動の性質が明らかになっていなかった当時としは、「不自然」という直観を肯定する理由も否定する理由もなかった。また、アリスタルコスは、ほかの惑星の運動を含めた、太陽系全体の成り立ちにはふれていない。このような理由から、プラトンやアリストテレスといった、大学者の説にとって代わることはなかったと想像される。

天動説モデルの熟成:その後、天動説の考え方の発展として、より精密に天体の運行を説明するためのモデルである、周転円を持つ軌道モデルが提案された。このモデルは、惑星の順行・逆行を説明するために、円軌道上に中心を持つ別の円軌道(周転円)を導入して、地球からみた複雑な惑星の運動を説明している。

この周転円モデルを体系的にまとめ上げたのが、プトレマイオスだった。プトレマイオスの頃には、過去の天体の運行を予測する、という天文学研究の枠組みが構築された。また、プトレマイオスの天動説モデルでは、一つの惑星の運行をいくつもの周転円の組み合わせを再現している。さらに、主軌道に、離心円(地球が回転の中心からずれた場所にいちしている)を導入し、円運動の速度を変化させるためにエカントという仮想的運動中心を導入したことが特徴だ。

エカントの導入により、惑星の運動は、円軌道を基本としてはいるものの、運動速度は一定ではなくなり、ピタゴラス学派以来の等速円運動モデルから脱却した。離心円運動と不等速運動という性質の導入は、のちにケプラーが発見した、第一法則と第二法則に通ずるものがある。一方で、この不等速円運動を導入したことが、約1500年後にコペルニクスがプトレマイオスの天動説モデルに疑問を持つきっかけとなった。

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地動説の復活:16世紀、ルネッサンスの時代になり、天体運動に関するモデルは、新たな展開を迎える。コペルニクスから始まり、ケプラー、ガリレオ、そしてニュートンへとつながる地動説復活の時代だ。

コペルニクスは、地動説を復活させたが、プトレマイオスが導入した不等速円運動を否定し、古代ギリシャから続く、暗黙の「天体の運動は等速円運動であるべき」という思い込みも復活させた。

コペルニクスの提示した太陽系モデルは、太陽を中心とする離心円を惑星が公転し、月は地球の周りを公転するという、現在の太陽系に近いものだった。しかし、等速性円運動を前提としたために、観測される惑星の位置との間にズレが生じ、そのズレを解消するために、それぞれの惑星は周転円を持ち、現在の理論ではあり得ない要素を含んでいた。

天動説モデルでは、主に惑星の順行・逆行を説明するために、周転円が不可欠でしたが、コペルニクスの地動説モデルでは、惑星の位置をより精度良く再現するために、周転円が残された。

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チコの観測とケプラーの法則:16世紀後半から17世紀にかけて、チコ・ブラーエによる惑星軌道の精密測定と、そのデータを用いたヨハネス・ケプラーによる惑星軌道の3法則の発見により、地動説の確立は最終段階を迎える。

チコは、壁面四分儀という、半径約2㍍の分度器のような巨大な観測装置を用いて精密な天体の位置観測を行い、自らの観測に基づいた惑星モデルを提案した。それは、地球以外の惑星は太陽の周りを公転し、しかし、太陽も地球の周りを公転している、という地動説と天動説の中間のようなモデルであった。

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チコが、地球中心説にこだわったのは、彼の高精度の観測によっても年周視差が観測しれなかった、という理由だ。年周視差は、地球が公転していたとすれば、地球が変化することによって、恒星が見える向きが微妙に異なるであろう、という幾何学的な予測である。年周視差が観測されない理由は、地球が恒星の回転の中心であるか(天動説)、または恒星がすごく遠いので年周視差が観測限界以下であるか、のどちらかだ。年周視差は、地動説の証明や恒星までの距離(宇宙の大きさ)に関わる、重要な要素であった。

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チコの死後、彼の観測データは、ケプラーに引き継がれた。ここで問題になったのが、火星の軌道だ。コペルニクスによる地動説モデルに基づく暦が予測する火星の位置と、チコの観測によりえられた火星の位置との間には、最大で8分(0.13°)の差が認められた。この差は、チコの観測精度では、もはや誤差と見なすことはできず、モデルが実際の惑星の運行を正しく再現できていない、という問題を浮かび上がらせた。

ケプラーは、地動説の考え方に基づいて、チコのデータから地球と火星の軌道を決定して、次の第1、2法則を導いた。

第1法則:すべての惑星は、太陽を焦点の一つとする楕円軌道を巡る。

第2法則:惑星と太陽を結ぶ線分が、一定時間に通過する面積は等しい。

第3法則:すべての惑星の公転周期の2乗と太陽からの平均距離の3乗の比は一定である。

これらの法則が描く太陽系-宇宙像は、後にニュートンにより一般化される物体の運動に関する物理法則と調和的で、万有引力の法則の根拠となるものだった。ここに、脈々と続けられてきた天体観測データの蓄積が、正しい一般化により、科学の第3段階(一般化と体系化)に発展した。



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