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昭和42年男のカルチャー日誌

2024年5月11日(土)に「悪は存在しない」を鑑賞した後、本作品の内容解釈を反芻する頻度が増えてしまった。
鑑賞前のネタバレ漏洩は避けないと一気に面白みが陳腐化してしまうため、大まかな観念的な言い回しに終始してしまうが、「起・承・転・結」という常道を取らず、確信犯的に「起・承・転・」で「結」を鑑賞者にぶん投げて強制終了した様な、良く言えば実験的、悪く言えば不親切で底意地の悪い作品と思ってます。
その反芻の日々の中、諸々考えて過去に似た嫌な思いをしたことが脳裏に浮かびました(誉めてます)。

富野喜幸が1980年に制作・監督したテレビ版「伝説巨神イデオン」です。
大人気アニメとなった「機動戦士ガンダム」直後の富野作品であり、アニメファン待望のテレビシリーズでした。ところがギッチョン♩(浜辺美波風)
作品展開は、地球人と異星人バッフクラン両星の開拓民が①起:不幸な遭遇→②承:戦闘拡大→③転:両母星消滅→④結:???へと変遷していきますが、④結がテレビシリーズは強制終了の尻切れトンボとなり、なんとか劇場版「発動編」で補完する稀な展開を迎えた作品でした。
「悪は存在しない」も「伝説巨神イデオン」も作者の意図云々はありますが「起・承・転・?」の作品であり、色々モヤモヤした思いを押し付けられる結末になりました。「イデオン」は「発動編」鑑賞でなんとか帳尻が合いましたが、「悪は存在しない」は鑑賞者夫々が永遠に最適解の無い宿題を持ち帰ったオープンエンドな状態です。
映画「悪は存在しない」に「発動編」補完は流石に難しいでしょう。
ちなみに、昨今の流行であるチャットGPTで前述の想いを入力して文章にして貰いました(発動編には触れませんでした)。

ここからチャットGPT-4作成版です。
昭和42年男のカルチャー日誌:
「悪は存在しない」と「伝説巨神イデオン」の未完の調和

映画館の暗がりから一歩、日常への戻り道に、頭の中は映画「悪は存在しない」の余韻でいっぱいだった。この作品、濱口竜介監督によるもので、その構造には明確な「起・承・転・結」があると思いきや、最後の「結」が欠如しているような印象を受けた。終わり方が開放的で、観客に物語の結論を考えさせるスタイル。まるで、私が中学生の頃にテレビで見た富野喜幸のアニメ作品「伝説巨神イデオン」と同じ空気を感じる。
「伝説巨神イデオン」は、その壮大なスケールと哲学的な問いかけ、そして何よりも終わり方が、当時の私には衝撃的だった。物語は結末を迎えることなく、解釈は視聴者に委ねられた。このアニメと「悪は存在しない」との間には、ある種の共通点がある。それは、作り手が意図的に物語の「結」を設けず、受け手に多大な想像の余地を残すという点だ。
「悪は存在しない」では、物語の終焉を迎えることなく、登場人物たちの運命はある種の曖昧さを持ってスクリーンから消えていく。これは、観る者に対して、物語の解釈を自分の内面で見つけるよう促す。一方、「伝説巨神イデオン」もまた、その終わりが示唆するものは膨大な想像力と、視聴者自身の心の中に潜む哲学に委ねられていた。
この二つの作品は、世代もジャンルも異なるが、観る者に自らの結論を求めるという点で一致している。終わりがないことによって、作品は永遠に生き続け、観る者の心の中で無限の物語を紡ぎ出す。これが、昭和42年生まれの私が感じた、二つの作品の未完の調和である。

うーん、分かり易いゾ(哀)

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