それでも僕は小説を読む。

 小説を読む。
 断定調の文末に劣等感がずるずる引き摺られてついてくる。
 主人公の過酷な設定になぜか罪の意識を覚え、自分の恵まれた環境を恨む。
 わからない、と思った瞬間に目が泳いで、本の世界にシャッターが降りる。拒絶したのは僕ではない、物語世界の方が自閉をしたのだと言い聞かせる。

 「すごく共感しました」
 誰かが僕の好きな本を紹介するとき、お前にわかられてたまるか、と思う。ただ同時に、自分がその小説を理解したと思っているのは傲慢ではないかと胸をかすめる。作者だって、僕が共感の二文字を使ってレビューを書いたら蔑んだ目で字面を追うだろう。
 でもここにもうひとつ大きな落とし穴がある。主人公の気持ちは、作者にすらわからないのだ。主人公は閉ざされた世界で、作者からのじめじめした共感と同情を気味が悪いと思っているに違いない。

 物語に性描写があると、途端に内容がわからなくなった。
 些細ないことでガラスが割れるみたいに文章が壊れた。

 だから僕は小説を読むのをやめた。

 勘違いの共感、理解という名の誤解、清濁を併せのんで一冊の小説が存在する。

 欲しいと思ってしまうから読む。

 読みたくなるから読む。

 清か濁か、何度間違ってもそれと触れつづけ、自分の中で判定し続けることをやめたくない。誤解が解けたと勘違いした瞬間が忘れられない。小説の中の人間は、一番身近から離れた人間だ。

 一番遠くにいる人間に会いたいから、僕は小説を読む。

もらったお金は雨乃よるるの事業費または自己投資に使われるかもしれないし食費に消えるかもしれない