サボる物書き

えー、全国のアーティストのみなさん、マジでサボるのやめてください。

あ、こう言うと「すみませんでした」って言ってパソコンや液タブに向かったりギターを弾き始めたりする人が多いと思うんですけど、マジでわかってないです。

それはサボってるんです。愛用の武器しか使ってないから、同じような物しか作れない。実際には価値がない「商品」しか作れないんですよ。

「場」を開拓する、愛用の武器から離れる、別の人と会話する、ターゲットを変える。

前々からずっと思ってたんですよ。音楽とか小説とか絵とかってつまんないな、どうでもいいなって。

それって(僕含めて)アーティスト、生み出す側がサボってるからなんじゃないかなってふと気がついたんです。


アートっておそらく医療と同じで、次の四点が重要なんですね。

・基礎研究
・技術
・アクセシビリティ
・公衆衛生

医療に関してはまったく知らないんですが例え話として勘で語ります。

基礎研究、疾患の原因を科学的に探求します。技術開発の基礎になります。

技術、これがないと病気は治せません。薬や医療機械の開発、個人の腕や経験則含めて。技術が向上することで難病が治る病気になったりします。

アクセシビリティ、最寄りの病院まで何キロもあったら、治る病気も治りません。医療費がバカ高いと、貧しい人は医療を受けられません。低価格化のためには、国や自治体からの援助も必要ですし、よりコストを抑えて薬などを生産する開発も必要です。

公衆衛生、も大切です。ひとりひとりが正しい知識を持つこと、また公共施設やライフラインを衛生的に保つこと。医療機関を受診せずとも、街を歩くだけで常に医療の恩恵を受けている。社会全体としての疾患の予防に繋がります。

このポイントはそのままアートに転用できまして。

基礎研究、は主に哲学、または哲学的思想の流れを汲んだアートになります。主に現代アートですかね。

技術、音楽で言えば音楽理論、小説で言えば文学的流派や脚本術、絵で言えば遠近法や色彩の理論など。主にアイデアを形にする段階です。

アクセシビリティ、音楽で言えば録音技術やCDの普及、文学でいえば印刷技術、絵でいえばコピー技術であったり、版画による絵の低価格化、だったりする。インターネットの普及は音楽、文学、美術のどれにも影響を与えています。

そして公衆衛生、建物の外観、街の設計、街の至る所に溢れる音楽、美術。使う物のデザイン性、広告のキャッチフレーズ。
そして個々人の使う言葉、歌う歌、書く文字やイラスト、普段使いの「アート」とは呼べないものにもアートのセンスが隠れているわけで、それらが私たちの生活をより豊かにする。
汚い言葉とデザイン性の欠片もない街に囲まれて暮らしていたらさすがに神経が参るでしょう。図太い人ならともかく。


さて、医療とアートは相似形だ、みたいな話を雑にやってきたわけですが、アートの方になかなか問題がある。

特に「アクセシビリティ」ですね。これがとても偏った発達の仕方をしているので、おそらくたくさんの人が「なんか違うな」って思ってます。ここが機能していないので、アートによって救えるはずだった人も救えなくなる。

今のアートのアクセシビリティについて医療の例え話で表現するなら、「市販薬が出回ったはいいが、使い方が周知徹底されていないのでODが蔓延している」状況ではないでしょうか。

そもそもアートとは「芸」からはじまっていると考えてみます。語ってきかせる(文学)、描いてみせる(美術)、歌ってみせる(音楽)という具合です。

この前提に立ってみると、すべての芸は実は五感を使って感じるものなんですね。絵には掛けられた場所がありますし、歌には歌う人がいます。文学も語る人がいます。芸を鑑賞するとき、リアルの場所や人、というものが必ず存在していた。そしてそこがリアルである以上、視覚や聴覚以外の感覚も十分に使って芸を体感していたはずなんです。

無意識のうちに、歌う人の息づかい、同じ場の空気(湿度や温度や風)を感じている。語る人がどんな格好で、仕草で、どの場所で語るのか、見ている。場合によってはそれらの人の匂いも嗅いでいる。絵が掛けられた場所へ行けば、そこの床のひんやりした感じや近くを流れる川のせせらぎも聴くかもしれない。

そういうアートの周辺に生まれる五感の「雑音」は必ずしもアートと無関係ではなく、むしろアートへの理解を深め、その真髄へと誘うものです。

しかし、録音や配信や印刷によってアートが「場」から切り離された。実際に医者に診てもらっていないのにドラッグストアで市販薬が買える状態です。

ここで生まれる三点の問題が、過剰摂取と感覚のアンバランス、そして作風の偏りです。

過剰摂取、アクセシビリティの向上によって、いくらでもアートが摂取できる状態になり、飽和状態になっている。脳もそれを吸収するのに疲れてしまう。

感覚のアンバランス、視覚や聴覚だけ酷使されることで、アート周辺の「雑音」が消え、アートを理解する大切な手掛かりをひとつ失う。また、脳の使い方にも偏りがでる。

作風の偏り、高速化した「アート鑑賞」に適応する、「瞬時にわかるもの」だけが生き残る。アート周辺の事象を排してもあまり問題ない作品だけが生き残る。求める側と作る側、そしてレコード会社や出版社やサイトやアプリなどプラットフォームを運営する側が相互に影響し合って、偏った方向への発達が加速する。

しかし、本当に市販薬ですべての病気が治るでしょうか?

この偏った発達をそのまま促進していいのでしょうか?

サボっている、というのはまさにこのことを言っています。この偏りから脱する、アンバランスを是正するアクションを起こすべきだ。

もちろん、すでに起こしている人もいます。ただ、私含めインターネットにいる人間はそこをサボりがちであるような気がします。さらに物書きは、無料の図書館とスマホ一台で始められますから、よりサボリストが多い気がします。もちろん一概には言えませんが。

では具体的に何をするか。

私は既にめちゃくちゃ小さいですがアクションを起こしています。

文学の「語り」要素の復活です。

小説や詩の作者本人による朗読という形です。


まだインターネットの世界からは抜け出せていませんし、文学と言うところからは抜け出せていません。完全に抜け出す必要もないでしょう。

ただ、もう一度、自戒を込めて言いたい。

「場」を開拓する、愛用の武器から離れる、別の人と会話する、ターゲットを変える。

サボってはいけないんです。ドラッグストアで満足してはいけないんです。もっと届かないはずだった人に届けないと、アートは救いにはならないんです。

よかったら、少し一緒に考えてみませんか?

サボるのやめませんか?

偉そうにいろいろ言ってしまいましたが、つまり自分に対しての戒めなんです。

最後に私のTwitter貼っときますね。それではまた。