昔に書いたもの

断片化された世界を、断片化された文章で綴る。

人々の意識の中で世界が断片化され、何事も人心と乖離している現象がある。いわゆる「他人事」も「視野の狭さ」も「愛の欠如」もここから生まれ、その行きつく先というのは、粉々になった世界とでも言えようか。
自己愛ばかりが強く、しかしもうその自己さえ様々なことを言い訳に情熱を、心を封じ込め、目先の損得ばかりを気にする文脈の無い世界への適応を図っている。

言行不一致は他人の信頼を削ぐどころか自分の信頼、自信を削ぐものである。
であれば、心の伴わない行動を重ねれば心は荒んでいくばかりだが、何を以て心は犠牲にされるべきなのか。本当に生きるとは、どういうことなのだろうか。

人が心からの行動や、発言をするときの多くは、最早考えなくとも数珠繋ぎに言葉が出てきたり、衝動的であったり、打算や理性など吹っ飛んでしまったり、自分が自分でない様であると感じたりする。それは人類普遍の本能的なもの、人類に限らず自然の摂理が関係しているように感じる。

仲間意識と言っては生温いが、こうした他者への愛や関心は、当事者意識にも繋がってくる。
原発の問題も、線引きしているから迂闊に「福島は危ない」「原発のことはよく分からない」などと言えるのであって、福島からわずか200kmの東京が安全だというのは安全神話でしかないことに、もしかしたら頭では分かっているのかもしれないが、何とか目を逸らし続けている。
そうした無意識レベルの犯罪性は、言葉の節々に表れたり、表現において隠せないものだろう。

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