October 1st, 2020

 個展終了後、充分に休みを取り、体力も復活したのであちこち足を運んできた。火曜日はギャラリイK『内海信彦展』、早稲田松竹『ロングデイズジャーニー』、水曜日は上野TOHOシネマズ『TENET』、国立近代美術館『ピータードイグ展』。そろそろまた休んで映画を浴びるように観る日々に戻りたい。。

 今年の内海信彦新作展の所感。全体に円の作品が広がる展示は昨年と同様だが、絵の中身は内海先生の2016年の屏風や、90年代の墨絵に近い、比較的はっきりとした明度差になっている(ちなみに昨年の絵の内容は、2017年や2015年に近いのかなと)。下地であろう部分にオレンジやミントグリーンなどの、鮮やかで僅かな刷毛跡が残っていて、自分も小品サンプルで図らずも似たもの(鮮やかな色を下地にしたり、色構成において)を作っていたことに気付く。もちろん、まだまだ先生の作品のスケールには及ばない。
 先生の作品は、サイズ、スケール、理論等何もかもが大きいと感じるし、それでいて「中に入ってしまった!!」ような、植物の、特に茎などを顕微鏡で覗いたような光景を、眼前にすることができる。鑑賞していると、心拍数が上がった。人の何かと呼応するような、視覚から脳が撹拌されていくような、いつもながら不思議な体験である。鑑賞中、すぐに他のことが気にならなくなり、没入しやすい作品で、それは一体何故なのか、自身の作品のためにももっと考えたいと思う。

 マクロとミクロの奇妙な一致の視点。内宇宙、Innnerscapeについて、先生の主宰する絵画表現研究室で、私も3年前まで沢山お話を伺い、文献も紹介していただいた。読了していないが『抽象と感情移入』(難しい…)をもとに、私は先日の個展のコンセプトを作成している。
 自分が先週展示していたり、後輩の搬入で照明について毎度話したりする中で、先生の展示の照明の妙にも気付けるようになった。明るすぎない。これはピータードイグ展でも感じたが、ドイグ展はなんだか暗くて油絵の具の特性も活かされていないように感じた。内海信彦展の照明の強さ、光は、とてもナチュラルで、作品を壊さないものになっていた。

 会場に入った瞬間は、全体的に作品が牛の革を切り抜いて作ってあるような…タフな印象を持った。いつもより一層、ラスコー洞窟やアルタミラ洞窟の感が強いのかもしれない。先生のワークショップで洞窟のレプリカに連れて行っていただいたのも、もう5年前になる。原始美術。それは、先生の作品を語る上で欠かせない要素の一つである。
 レプリカで観た洞窟絵画は、古いどころか躍動感があり、品格さえ感じさせた。…品って何だろう。あからさまに問うのもまた品のないことかもしれないが、個展でよく考えてしまったことの一つだ。何かをしないこともまた立派な行為であり、そういう自分のルール(ドグマ)を物作りにおいて決めておくといいかもね、という話を、画廊で再会した先輩の安藤春さんに聞いたことも非常におもしろくて、なんだかここ最近の「品格とは…」の謎に繋がりそう、と思った。

 大きな作品でリズムを取れていたり、天使の飛ぶ宗教画を観るような感じがあったり、内海先生が大事に思ってきたものや尊敬してきた作品を、3回ワークショップに参加して見てきて、今改めてそれらが作品に重なって見える。神々しくもあるし、自然的で包まれるような、異物感を与えない親近感…というのか、普遍性がある。
 紙は紙を超えて、鑑賞者を圧迫する存在に変わり、それがギリギリの密度(作品の持てる特質に対する間合い)で会場に点在している。しゃがまないと見えないところに作品があるのもおもしろい。子どもにも見せてみたいが、怖がってしまうか否か。それは人間以前か人間以後を感じさせる"もの"の世界であり、私たちを構成するものや、私たちが来て還っていく場所に近いから、きっと恐ろしいのである。作品の持つ引力の秘密の一つであると思う。

 先輩の大久保貴裕さんが、絵画における、色彩以前の光と影について最近facebookで書かれているが、私も色彩への囚われやすさについて、以前先生に注意していただいたものだった。それでも私の色への興味は完全には捨てきれず、捨てるべきでもないが、絵画が色抜きに成立するもの、空間でなければならないというところは、いつも頭の片隅にある。いや片隅ではダメか…

 良い絵画、作品は、おそらく重低音が聞こえるようなものだと、3度目の個展あたりから自分なりに考えていて、先生の作品にはそれがある。レイヤーの重なり方、光の放ち方がそれを想起させるのだろうが、単に厚塗りすれば良いわけではもちろんないし、そうしたものをつくるのは易しいことではない。観ていて沢山聞いてみたいことが出てきたが、絵のhow toは知りすぎない方がいいかもしれないし、そもそも全ては教えていただけないかもしれない。笑

 最近の内海先生の投稿を読んで、色々と知識及び情報の補填をしているが、古典技法であるフランドル技法に取り組んでいた若き日の訓練を応用して、今も一見違うような技法や画材であるにも関わらず、似たアプローチで絵を制作しているという。私も今回、アクリル絵の具と戯れる中で、薄めた黒を放っておくと、黒の色素だけが粉のように積もり、上澄みの水は最後に乾くといった技法(?)を見つけた。凹凸のついた画面にその黒い水を這わせると、画面の山嶺だけが柔らかな黒から突出することになり、その形がまた予測不可能でおもしろい。後からフランドル技法のことを読んで、それとなんだか少し似ていることに嬉しくなった。せっかちな私は乾くのが待ち遠しいが、そんな時間も作品に必要な時間だったのである。絵画は、作るのも観るのも、時間と忍耐が要る。

 私は先生の制作現場を映像でしか観たことがないが、その即興に見える制作過程について、偶然と必然の議論から、時空間の議論、世界の仕組みへと話が派生し、その辺りのことも理論化して書かれている文章がいくつかあって、お話も伺った。時間の不可逆性を前提とした可逆性。宇宙の膨張と収縮。映画TENETを観た後だけに、ノーラン監督と内海先生の考えているところは近いだろうなと思っている…いや多分、量子力学や並行宇宙の議論は、今の科学の最先端なのであり、それを作品のテーマの根幹にしていることが共通しているのだ。
 宇宙のことは今も新たな発見がされ続けている。そうした「謎に満ちた世界の構造がひとつ新たに分かった」ニュースを知ると、私も2020年まで生きてて良かったと思うものである。辛いニュースが続く昨今だが、新たに生まれたものに喜んだり、自分が主体的に動き生きている実感を持つことは、切実さを増してきていると思う。どうかこの時代を生き抜き、また新たな発見に喜べるように、私も歩を進めていきたい。

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