見出し画像

信仰なき隠遁は可能なのか?

この記事は「『働かないで将来どうするのw?』論考」の続きである。

さて、前回の記事の最後では、僕が正社員で働かない理由として
確かに将来(老後)はヤバイかもしれないけど、サラリーマン生活をしていたら、メンタルの問題で、そもそも将来(老後)が迎えられないから
と述べた。
そして、僕は実際に、最低限の労働(webライティングの業務委託)で生活を行っているわけである。
いわゆる、「寝そべり族」だ。
しかし、そのような生活も実際にやってみると、限界を感じてくることが分かる。
それらについて、この記事では詳しく述べていこう。
 
さっそくだが、要点から言ってしまえば、人間は「希望」無しに生きられるのか?ということだ。
サラリーマンと寝そべり族、苦楽の量で比較すれば、それはもちろん寝そべり族の方が圧倒的に"ラク"である。
しかし、寝そべり族には希望が無い。
サラリーマンには希望がある。
それが、出世なのか給料UPなのか、家族を持つことなのか子供の成長なのか、マイホーム購入なのかマイカー購入なのかは分からないが、人生が順調に行っている限り、「どんどん暮らしは良くなるし、未来は希望に満ち溢れている!」ということだ。
もちろん、ニート論・もしくはFIRE/リタイア論から言えば、「そんなものは目の前にニンジンをぶらさげられて搾取されているだけ」だとか、「資本主義のラットレースに踊らされている哀れな奴隷」だとか、批判・冷笑することは可能だろう。
むしろ、僕も概ねそのように感じてしまうものだ。
 
だが、「希望のない生活」というのは予想以上にしんどい。
「生きる目標」「ゴール地点」「人生の方針」、そういった理想が存在しないニヒルな世界では、ただ快楽が底なしの虚無に響き渡るだけなのである。
(例えば、僕はテーブルに置いてあるチョコを食べれば快楽を得ることができるだろう。
だが、「それがなんなのだ?」
快楽を得たところで、そういった感覚が発生したところで何になるのだ?
社会のレールからドロップアウトした生活をしていると、このような"無意味さ"について強く考えざるを得ない)
 
また、世の中に流布しているFIRE論やリタイア論だって、言ってしまえば、「希望」の位置をすげ替えているだけにすぎない。
定年退職後の悠々自適な生活、そういった遠すぎるゴールテープを30代・40代といった現実的な場所に設置する。
情報を発信しているFIREラー・リタイアラーは別として、それに随従するワナビーたちにとっては、それによって目の前のハードな労働を耐え抜くという側面の方が大きいのではないのか。
(また、実際にFIREやリタイアを達成した人はどうしているのだろう?
多くは「希望売り屋さん」や「悟り系の僧侶キャラ」、「過激発言の芸人キャラ」をやっているように思う。
これもまた、「自分の名をインターネットで売り出して有名になりたい」という"希望"に対する欲求が成す行動だろう)
 
こうした現代的な隠遁の難しさについて考えるとき、いつも僕の頭に浮かぶテーマがタイトルの通りである。
つまり、「信仰なき隠遁は可能なのか?」だ。
そもそも、本来の定義として、世から隠れて生きる"隠者"とは、宗教的な背景を持っている者がほとんどだった。
有名所を挙げると、キリスト教ではテーベのパウロス、『方丈記』の鴨長明も出家した仏教徒であった。
おそらく、僕が考えるに、なぜそういった宗教者が隠者としての生き方を全うできたのかと言うと、"希望"を超越的な領域、もしくは死以降の領域に設置していたからである。
死後、復活して神の国に行く。
輪廻転生し、更に功徳を積む。
(浄土宗系の人は、浄土に行く)
俗世の人々から見れば、くだらない・つまらない・苦行のような・みじめな生活であれど、彼らは戒律を守り、隠れて生きることそのものが"希望"に繋がると確信していた。
すなわち、信仰があった。
それが隠者としての生き方を可能にしていたのである。
おそらく、この記事を読んでいる人や、ニート・リタイアラーで、本格的な信仰を持っている人はまれであるだろう。
逆に、科学主義で、ニヒリスト、宗教なんてウソ、快楽主義の唯物論者、こういった人々が大多数であり、現代社会的にも一般的な感覚なのではないだろうか。
こういった人々は結局(僕も含めて)"俗"に再び絡めとられるのがオチというわけだ。
 
では、こうした問題(希望がないことによる虚無)を解決するにはどうすればいいのか?
まず、第1に「信仰を持つ」ということである。
これはネタとかではなく、大マジに言っている。
だが、これは専門外である上に、僕が偉そうに語れる事柄でもないので、ここでの詳しい言及は控えておく。
図書館やインターネットで各宗教・各宗派の情報はよく調べられるので、気になった人は色々と読み込んでみてほしい。
 
次に、第2の方法としては、「やっぱり真っ当に働く」だ。
働いて、家族を持って、子供を育てる。
「それが無理だからニートをしているんだ!」という人にはなにも響かないかもしれないが、「あえてニート」「一時的にニート」な人にとっては一番現実的な選択肢なのではないだろうか。
 
続いて、第3の方法は、「カルチャーや創作、もしくはサークル活動などに希望を見出すこと」である。
一般的な労働生活や家族観に希望は見出せなくとも、創作や交流などの営みに希望を見出すという方法だ。
クリエイティブ系のニートは本や画集、アルバムを出すことを目標にすればいいし、インディーズの自己出版やデジタル配信ならば全然非現実な夢でもない。
僕がこうやって記事をぶつくさ書いたり、ニートマガジンというサークルに参加しているのもその一環である。
 
最後に、第4の方法は、「短期~中期の希望を持つこと」。
例えば、僕は冬季鬱でずっとナヨナヨしているが(約1か月もnote更新しなくてスミマセン)、春になったら高速バスに乗って小旅行に行こうと思っている。
これが現在の希望①だ。
また、ニーマガのサークル活動でも、水面下で色々と計画を進めている(希望②、近いうちに発表できると思うのでお楽しみに)。
 
僕のように無信仰・虚弱・働きたくないの人は、未来に打ち込んだ小さな希望(杭のようなイメージか?)をロープで手繰り寄せ、どうにか前に進んでいくしかない。
前半の記事でも述べたが、もはや僕(僕のような人間)にとっては、「計画の実行」ではなく、「どこまで行けるか?」というゲームの捉え方をするしかないのである。
 
タイトルの割にしょぼい結論になってしまったことは申し訳なく思うが、第3・第4の「創作・交流」「短期~中期の希望」が僕にとっては現実的な生存戦略になりそうだ。
 
あなたにとっても、なにかしらの参考になれば幸いである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?