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マージャン・リインカーネーション

 よく分からない。現実が、よく分からない状態になってしまった。原因は分かっている。まともに寝れていないことだ。寝そべり族なんて名乗っているのに、睡眠に支障をきたしているとは、なんとも皮肉なものである。

 いつ寝ていつ起きているのか? 何時間ぐらい寝ているのか? 睡眠不足というのなら、まずはその記録を提示しろと言われそうなものだが、それが僕にもよく分からないのだ。朝に眠るときもあれば、昼に眠るときもある。夕方に眠るときもあれば、夜に眠るときもある。短時間しか寝れないときもあれば、長時間ひたすら寝続けるときもある。もはや、自分がどのように生活をしているのか、よく分からない。今日が何日なのだとか、日付が変わったのだとか、そういう実感が著しく薄れてしまった。これは夢なのか? 現実なのか? そして、(おそらく現実であろう)起床中は頭がボーッとして何も考えられない。廃人のように、ただベッドで電気毛布に包まっている。

 気力もなく、頭も働かないときは虚な目でスマホを眺めるぐらいしかやることがない。更に言えば、インターネットやSNSさえまともに見たくないときがある。嫌悪や不安を煽るくだらない情報が、無限にスクロール画面に現れ、それに情緒を消耗している時間が、そして、なによりそんなものに振り回されている自分自身がとことん厭になってしまう。

 それでは、このようにネットすら見たくないとき、僕は何をしているのか。それはマージャン、麻雀アプリである。それも、対人のオンライン対戦アプリではなく、CPU3人と対戦するだけの、App Storeでも大した評価がついていない、ありふれた凡庸なアプリだ。

 僕は対人戦による刺激を求めているわけではない。むしろ、それを避けている。現在のように頭が働かない状態で参加しても、「ああ、相手を待たせてしまっているな」と変な気を遣い、余計なストレスを感じてしまうだけだろう。

 ならば、いったい何を麻雀アプリに求めているというのか。それは「ただ麻雀というゲームのルールに従っていればよい」という状態である。麻雀の世界の中では、やるべきことが明確だ。ルールから、手牌から、定石から、己が為すべき命令が聞こえてくる。僕はただそれに従っていればいい。僕は麻雀の画面の中においてだけ、現実の混沌から逃れ、安寧な秩序の中に身を置くことができる。ピンフ、タンヤオ、リーチ。チー、ポン、カン。何も考えなくていい。ただ、その状態が心地いい。

 「〇〇は人生」、とゲームや作品を評価する言い回しがあるが、それで言うと麻雀はなかなかに「人生」であるように思える。しょうもない配牌から始まってしょうもない結果で終わるときもあれば、ツモによって突然手牌が化けたりもする。その一方で、理想的な配牌から始まっても、相手の安い手にあっさり振り込んでしまったりする。

 麻雀は人生。貧しい生まれからそのまま惨めに一生を終えることもままあれば、貴族に生まれたものの流行り病であっさりと命を落としてしまうこともある。自由意志、僕らには自由意志というものが存在するとされているが、麻雀ワールドにおいてそれは、何を捨てるかとか、何を鳴くかとか、その程度に限られてくる。そして、現実世界でもそれは同様に、ほとんどは配牌(生まれ)やツモ(偶然の出会いや環境)の天命に「どう対処するか?」ということであって、僕らがその生涯に、真に能動的なアプローチを行うことなど不可能なのではないだろうか。

 また、もう1つ言及したいのは、麻雀の手牌は常に欠けている、飢えている、不満足であるということだ。3・3・3・3・2という4面子と1雀頭が正式な役として揃うのは、アガリのときのみであって、それ以外、すなわちゲーム中(生きている間)は自分に足りないものを常に追い求め、それに一喜一憂、振り回されることになる。

 そして、唯一満足感らしいものを得られるのは、うまくアガったときのみであるが、それも束の間であり、築き上げた偉功もすぐに破壊され、掻き混ぜられ、また次のゲームが始まる。カルマ。輪廻。麻雀は人生。

 もちろん、そういった麻雀ゲームをくだらないと感じるときもある。非常によくある。CPUにアガられたり、放銃してしまったりしたからイヤになったとかそういうことではない。たとえ、自分が勝っていたとしても、突然「何してんだろ。全部くだらないな」と、iPhoneのホームボタンを2回タップし、そのまま麻雀アプリを上にスワイプして終了させてしまうことがよくある。

 とはいえ、そのように麻雀ゲームの中から抜け出しても、僕の前に立ち塞がるのは、不可解な現実、現実と一般的に呼ばれているもののみである。僕には、この現実というものがよく分からない。

 やめてしまえばいい。現実も2回タップして上にスワイプしてしまえばいい。そういった考えも、正直脳裏によく過(よぎ)る。だが、そうしたところで、僕はこのゲームから降りられるのだろうか? もしかしたら、また次のゲームが始まるだけなのではないだろうか?

 別に、僕はいわゆる輪廻転生を信じているわけではない。むしろ、どちらかと言えば、科学的な人間である。だが、僕がここに存在している「よく分からなさ」。神秘と表裏一体ですらある不条理さについて考えてみると、また、このように再び意識が発生することも"あり得なくもない"ように思えてしまうものだ。

 僕にはこの現実がよく分からない。一体何に従えばいいのか。何か目指すべき目標があるのか。
 分からない。恐ろしい。考えたくない。
 そうして、僕は再び、麻雀の輪廻の中に逃げ込むのであった。


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