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「働かないで将来どうするのw?」論考

ニートに対する説教には、様々なパターンが存在する。
「そんな生き方をしていたら情けないぞ!」
だとか
「お前みたいな人間がいるから社会がダメになるんだ!」
などである。
 
だが、ニートに対する代表的な有効打としては、この一言が挙げられるだろう。
それは、「働かないで将来どうするの?」というものだ。
ふんわりとした社会通念や一般常識の押し付けとは違い、この一言には具体的に身に迫ってくるようなリアリティがある。
「国や社会なんてどうでもいいw 日本滅ブベシw」などと言っている露悪的で個人主義なニートも、この一言には具体的な自身の貧困や惨めさが想起されるため、まいってしまうのではないだろうか。
(『オーシャンまなぶ』だったら、大抵のニートはこの一言で倒せると広まっていると思う。『オーシャンまなぶ』、知ってますか?)
 
この"殺し文句"に対するアンサーとしては、まずこのようなものが挙げられるだろう。
将来どうなるかって? それはいずれ老いて死ぬだけだよ。オレもアンタもね
というものだ。
"死"という全人類に共通する根源的恐怖、そして宇宙的な時間スケールを持ち出すことによって、目の前の問題を矮小化するテクニック。
貧富だとか生活レベルだとかそういう問題からピントをずらし、更には「え? お前そんな俗っぽい価値観に囚われてるん? オレはもっと巨視的なスケールで世界を俯瞰しているけどね?」という"悟り系"のマウント返しが可能だ。
主に哲学・宗教系ニートがよく使う手法である。
 
また、別のアンサーとしては、こんなものが考えられるだろう。
いや、お前こそそんなに働いてなんになんの? 定年後に金があったとしても、ヨボヨボで人生エンジョイできんの? オレはただ今を楽しく生きているだけなんだよね
というものだ。
これをイメージするには、有名な「メキシコの漁師」のコピペが分かりやすいだろう。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

どうだろう? どこかで目にしたことのあるコピペだったのではないだろうか。
(ちなみに、怪しい金儲けのネズミ講セミナーでは『金持ち父さん』など自己啓発本を読まされると聞くが、僕としてはニート系インフルエンサーや反労働系コミュニティが新参者にとりあえず読ませて、洗脳させるのがこの「メキシコ漁師のコピペ」だと思っている)

話を戻すと、「いや、お前は孤独な独身ニートだけど、メキシコの漁師には家族がいるよね」とか「いや、金がある状態でスローライフをするのと、金がない状態で貧乏生活をするのは全然違うよね」などのツッコミどころはあるかもしれないが、まあうまくやればハッタリをかまして、批判をはぐらかすことができる。
さらにそういった「自由人アピール」はなかなかマウントとして有効だ。
え? お前らまだ思考停止して社会に縛られてるん? オレは自由に今(イマ)を生きているけどね?
というカウンターをかますことが可能なのである。

そして、この2つのアンサーから読み取れるのは、ニートが持続的に働かないで生きていきたい(社会に存在を許容されたい)のなら、結局「哲学者・僧侶キャラ」か「自由人・芸人キャラ」のどちらか(もしくは両刀)になるしかない、ということの示唆でもあるだろう。
言い換えれば、セルフ・ブランディングの重要さ。
社会で実働をしているわけではないけれど、「ありがたい人」「ためになる人」「ユニークな人」「見ててウケる人」、そういうポジショニングを得ることによって、逆に大衆に対してマウントを取ることが可能になる。
さらに、そこでうまく人気を集めれば、収入を得ることだって夢じゃない。
『働かないでゆるく生きる方法』
『自由人のボクが見つけた最強の生き方』
こういった本を出版して固定ファンを獲得すれば、もはやニートとしての"あがり"は確約されたようなものだ。

閑話休題。
ビジネスニート批判に話が移ってしまったが、本題に戻ろう。
「働かないで将来どうするの?」
このような批判に関しては
「① オレもオマエも死ぬだけだよ」
「② オマエこそそんなに働いてなんになんの?」
が有効であると述べた。
もちろん、僕もこの2つをインターネットや書籍で悪用してきた身なのだが、最近は3つ目の
いや、自分はシンプルに長生きしたいだけなんや
というアンサーを主に採用している。
 
これはどういうことか?
ここで少し自分語りをさせてもらうと、僕は鬱病と診断され、1年ほど本当に部屋に引きこもって廃人のような生活をしていたことがある。
今ではこうやって文章を書いたり、散歩をしたり、簡単な業務ならすることが可能になったが、おそらくハードな週5日・8時間の労働生活に戻ったら、僕はまたいずれ(数か月・数年は耐えれたとしても!)メンタルがダメになってしまうだろう。
そして、希死念慮や絶望、そんなものに強く囚われながら長生きができるはずがない。
なんなら半フリーランス・半ニートの今だって生きるのがしんどいものだ。
そういうわけで、僕が働かないのは、「確かに将来(老後)はヤバイかもしれないけど、サラリーマン生活をしていたらそもそも将来(老後)が迎えられないから」という至ってシンプルな合理的判断によるものなのである。
これを言えば、相手も「ああ、そうなんだ……^^;」としか返答することができないだろう。
(心の病気の問題はイジりづらいしね)

(ここで別の表現をしてみれば、一般的な人々は「プロジェクトを計画通りに実現するゲーム」をやっていると言ってみてもいい。
人生100年時代、家族、子供、マイホーム、老後。
そういった計画の実行に意義を見出しているというわけだ。
その一方で、僕は「生まれ与えられたスペックで、どこまで生き延びることができるか?」というサバイバルゲーム、もしくは不思議なダンジョンをやっている。
60F〔フロア〕、もしくは70F、80Fまで生存することができれば御の字というわけだ)

 
だが、実際にこのような生活をしてみると、個人差はあるかもしれないが、限界を感じてくることも事実である。
次の記事では、その辺りについて詳しく述べたい。
 
(つづく)
→「信仰なき隠遁は可能なのか?
 

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