捨て身の慈悲行

産まれた時から2番手だとする。
それが近頃顕著に出ており、良き友人だと思っていた三人は今になって私に連絡をいれた。好ましいとは思えない。きっと変わってしまった。

江戸時代だったら側室として良い生活をしていたのかもしれないが、現代では傍から見たら泥水の上澄みだけを啜っているような。
それでも違和感のない暮らしはきっとこれでもどうにか成り立つ。

さて、トラウマを1つずつ乗り越えている。
もうきっと待ち合わせという概念にも総武線というアレにも前のような苦しさは感じていない。
いつかまた苦しいと思う日が来てしまうのはしっているが、今はどうにか縋っていたいと思う。


誰かさんは今日も変わっていないのだろうと思う。けれど人間の体というのは2年もあれば細胞が入れ替わってしまうように、思考も入れ替わってしまう。だから変わらないように見えても確実な変化はある。

テセウスの舟に対する解釈は人の数だけあって良い。だからどうか、本当に別人になってしまう前に記憶に焼き付けてほしい。


思い出は掠れ行くため、雨は明け方に星に変わるよ。



特定の誰かに向けた言葉ではないとする。

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