これ以上文章を書いたら死んでしまいそうな日がある。もしシナリヲライターだったら私は500文字何Kで契約を結ぶのだろうかと考えた時、きっと私がいつも書く量は1日あたり25万辺りなんだと計算できた。確かに外注じゃコスパが悪い。ありえない。そんな無駄をするべきではない。単位は別に関係ないからいい。

血の騰がる瞬間というとどうやってもまだあの特有の感覚を抜けられていない人という印象を受ける人も多いだろう。が、それに対する他者の評価は個人的憶測としては必要が無い。比べようがない。芸術関連のお偉い作家が点数を付けることを拒むように。しかしその血の騰がる瞬間だけを探して生きている者がいた。惹き付けられた。彼からすると、きっとそれはあまりにも関係がない。そんなことはどうでもいい。騰がる感覚を掴むだけで充分だと信じている。そうでなければ狂人、あるいは狂人。人間は欲深い。それでも彼は後先を考えていない。だから。
食べることもままならない。

無様だ。無様で面白い。可笑しければ可笑しいほどセラヴィーというやつだと思う。可笑しければ可笑しいほど今の自分が3ミリほど好きになる。カタルシスを求めるのではなく、その感情の跳ね上がりを探していた。

2015年だった。それ以外目に入ってこなかった。
強烈なインパクトがあったわけではなくて。
気付いたら目に入ってきた。ありえないと思った。消えてしまう前に。

夏だったから、だから多分見つけることができた。全てが計算され尽くした、そんなものだった。それを見て中学生が感銘を受けない訳がなく、堕ちた。確実に血は「騰がった」。彼が言う騰がるはこれかと思った。身を持って。
騰がるという表現方法は間違っているという説がある。……にも関わらず、それが正しいと信じ込んでいる。実際代替となる言葉が見つからない。壊れたレコードを回し続けるが如く騰がるという表現に執着を持つ。

騰がる瞬間というものを作ることができる。
別に私が作らなくとも他の誰かでも騰がる瞬間というものを作ることができる。それは確実に。
それでも確信を持ってしまったせいでもう後戻りはできない。いや、戻れはする。辞めれもするしいずれ終わる。今紡ぐことは別として戻ることはできる。

無駄でしかないとされる場合もある。衣食住ではないので。きっと。触れなければわからないことがあると信じているが、大人はそうではないと言う。大人になったらわからなくなるのだろうか。

例えば2015年。例えば異常な眠気。それを共有した人。スクリーンショットさえ撮れない子供用タブレット。犬。筋肉。果物。普通なら一番印象に残らなかっただろうに。あの女の子の演奏に惹き付けられてしまった。あの人の紡ぐJPEGが好きだった。あの人が書いたプロットが上手くて悔しかった。あの人の作る音楽が大好きになった。気付いたら賛同してる人が沢山いて、そこに価値というものが付き始める。価値というものの付き方について。比較対象はいなければならない。それが悪として出回ってしまうことを美学だとは言えない。
ほんとは私そんなのどうでもいいよ。
あの人が紡がなきゃ意味がなかったものを。

難産の場合、一層その子は可愛いという。
一度。諦めが含まれているとしたら。
本当はその選択はする必要がなかった。
文章の癖が消えないように。
君がおかしくなってしまわないように。

それで恩を返せたらなんて思わない。
別のものである。私が紡いだとしても彼女が紡いだことにはならないので。
執着のせいでしがらみがある。無様だ。

レコォドという表現を使いたかった。夢野久作を読んだから。
騰がるという表現を使いたかった。あの人が紡いだから。

でもそれがなかったら、何も面白味は無かっただろうに。


昔全てを産み出したあの人にこんなことを言って困らせてみたいと思う。とあの人に伝えたところ、水のような透明な。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?