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山を見ながら川を下る:キャリア論(多分その1)

人事系の本を読んでいたときにキャリア形成の仕方について川下り型と山登り型という言葉に出会った。大雑把に川下りとは流れに身を任せて与えられた仕事の中で受動的に決められるキャリア形成の仕方、山登りは自分から目標を決めて登山ルートを自分で決めながら進むキャリア形成の仕方だとか。

ぱっと聞くと山登りの方が主体的でいいのではと思ってしまったがそうでもないらしく、山岳地帯に行く格好で何もわからず登ってみたら高尾山だったみたいなことも起こり得るため、日本の企業においては(殊更、総合職という文化において)川下りをある程度してみて仕事内容を見た後山登りにシフトするという形態を取っているらしい。

確かに自分が就職するときに、内心で就きたい仕事のハードルが高すぎる気がして目を背けており、他にやりたいこともなかったことから、その形態は自分にフィットしていたのだとは思う。ただ今の会社の基本の業務を一通り経験して再度また同じ問題に直面している。

今の会社の通常業務としてやりたいことでも何もなかったが、強いていえばシンクタンク部門に強い興味があった。元々、院への進学も考えていたくらいには研究職に興味があったが、ゲイであったため早く家から独立したいという焦燥感と文系研究職の門戸の狭さから当たり前のように大学卒業して就職をしてしまった。就職が決まった先にたまたま研究職のチャンスがあると知って、誰にも言えなかったが密かに行きたいと思っていた。だが、そんなキャリアを考えて入社する人は少なく、しかも狭き門でもあるためなかなか大声で宣言することも憚られて入社後は大人しく過ごしていたのだった。

ここ最近キャリアのことを考えているとやはりその時の記憶が思い起こされてくるのである。とりあえず川下りをして、やりたいことを探したはいいが、やはり元々遠くで見ていた山への憧れも捨てきれていない。そんな滑稽なほどアンビバレントな気持ちが中で渦巻いているような気がしている。実際にその山に登るためには色々なスキルの装備が必要であり今の自分に足りているとは思えない事も多くある(文章力とか分析力とか専門知識とかとか…)

とはいえ、いつまでも川下りをしていても行き着く先は海しかなく、なんの専門性も持たずにキャリアを終えてしまうのも目に見えてる。キャリアのタイムリミットは一応ないとはされているものの現実問題として日に日にチャンスが狭まっていくのを感じていて、行動に起こさないといけないと思いつつ、どうせ自分なんてという諦めに似た言い訳のブレーキでにっちもさっちも行かなくなっているようだ。

願わくばもう少し自分に自信が持てればよかったと思うが思うだけでは何も変わらない。答えの出ない(本当は出ている)問題を堂々巡りし結局時間だけが過ぎているので、やはり覚悟を決めるしかないのだろうか。

まだまだキャリアに関する自己問答は続きそうである。


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