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【フジロック2021】批判されまくった開催の中で見たもの

フジロックから帰る新幹線の中。
巷では連日コロナの感染者が増え続けていて、東京も日々当たり前に5000人を超える感染者が報告されている。
国内では先日1日の感染者が2万人を大きく超えた。

こんな状況の中でフジロックに行くにあたり、何度もツイッターの書き込みを検索しては行くべきかどうかギリギリまで悩んだ。
自分の選択が見知らぬ誰かの命に繋がってしまうかもしれないと思った。
そうまでして行く必要があるのだろうかと考えた。

けれどもそんな中で開催すると決めた人がいて、出演すると決めた人がいて、迎えると決めた人がいる。

私がキャンセルする方に手が動かなかったのは、ぼんやりだけど、その人達の生身の有様を見ることに何か意味があるように感じたからだと思う。
白状すると、そこに不謹慎ながらある種のミーハー心があったことも事実である。
出口の見えないこの悶々とした日々の中で、エンタメを提供する人達は現状をどう捉えているのか、あわよくば、その中にある揺るぎない強さみたいなものを見て安心したかったようにも思う。

不安と期待で訪れたフジロック。
出演するアーティスト達は、それぞれ色んな形で自分達の思いを表現していた。
あえて何も語らずという人もいたし、言葉にしようとして詰まってしまう人もいた。
手短に感謝を述べたり、形は本当に様々で、そこからも誰もが少なからず迷いを持ってその場に立っていることを表していた。

世間的に見れば、開催を中止して、医療の現場を守ることが絶対に正しい道なんだということは皆重々分かっている。

そんな中でKing Gnu井口さんが「自分はステージに立ってしまった、医療関係の人に顔向け出来ない、だけどそのステージの上でオーディエンスの姿を見た瞬間込み上げてくるものがあった」と語りながら声を震わせる姿に、アーティストも同じ人なのだと実感させられた。

私がそこで見たものは、矢面に立つ人間の「強さ」ではなく「弱さ」だった。

人は、皆弱いのだ。

それぞれに立場があって、役割がある。
家族がいて、仲間がいて、自分が護らなければいけないものは人によって違う。

遠くの見ず知らずの誰かのことを考えていたら、自分の身近な人を護れない時だって、ある。

音楽で世界は変わらない。
アーティストは無敵のヒーローじゃない。
まだ若い20代の、ほんの数年前まではただひたむきに音楽に向き合っていた青年達が、あっと言う間に業界のトップまで登り詰め、チームは大きくなり、自分達の言動行動一つでそのチームや業界の運命を左右するような立場に立った。
その若い肩に乗せている重圧は、どんなに重いことだろう。

自分達の音楽に付いてきてくれと言いながら、それは全ての人を救えるものではないという現実を突きつけられたアーティスト達が、それでもやっぱり付いてきてくれと改めて言うしかない弱さを自覚しながら奏でる音楽は、皮肉にも最高に素晴らしかった。
どのアーティストも、今その瞬間に演奏出来る喜びと、そうまでして奏でる覚悟のようなものが音に詰まっていて、それが瑞々しく溢れてくるような音楽となって放出されていた。

彼らもまた、同じ人なのだ。
見ず知らずの人の命が関係ないなんて思っているわけがない。
自分達の業界が良ければ他はどうなっても良いなんて思っているわけがない。

だから迷って、でも自分達の護らなければならないものを護るために、震えながらステージに立ったのだ。

全てを救えないと知っている弱さに裏付けされた強さを、私は見た。

King Gnu常田さんの言葉を借りるなら「それぞれが周りの人達の幸せを考えて、皆がそれをやっていった先に未来がある」
白黒なんて立場によって変わるこの世の中において、数少ない本質の一つだと思う。

見知らぬ誰かのことまで護れないのと同時に、見知らぬ誰かの批判をしていても仕方ない。
私も自分がフジロックに行くことは棚に上げて、路上飲みをする若者の横を眉をひそめながら通り過ぎていた一人だけど、そんなことよりも自分は身近な人達の生活や心は護れていたんだろうか?を考える。
私がやるべきことはそれでしかなかったのだ。

覚悟を決めたアーティスト及び関係者の方々と違って何を護るでもないのにわざわざこの時期にフジロックに行った私が得たもの。
強さだけを持った人間なんて存在しない。
等しく傷つき悩み、その中で自分の護るべきものを護る為に生きていく。
この世の問題はコロナだけじゃない。

護れるものを護る為に考える。
フジロックに行って良かったと言えるかどうかはまだ分からない。
でも、行った意味はあったと思う。
その先の未来は、これから作る。

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