年長と千鳥と試行錯誤のジェンダー教育
うちには年長さんの次女がいる。この次女、芸人の千鳥さんが大好きである。千鳥の面白さが年長さんにも分かることにちょっと感心しながら、母は黙って毎週日曜に放送されている「テレビ千鳥」を録画している。
先日のテレビ千鳥の内容は「野球盤で遊ぶんじゃ」。千鳥の2人が野球盤で遊ぶ企画である。次女は毎週月曜の朝、幼稚園に行く前に録画消化をする。今朝私がテレビの前を通過した時には、どういう経緯かは見ていないがノブが雑に女装をして座っている様が画面に映し出されていた。
次女がこの内容を楽しそうに私に話して聞かせてくれたのは、その日の午後であった。幼稚園から帰って来て初めて口にした話題がテレビ千鳥である。こうなるともう幼稚園で今日何があったか、私には知る術がない。次女がおよそ10分かけて発言した内容をかいつまんで言うと以下のようになる。
「ノブがスカートをはいて、長い髪のカツラをかぶっていたのが面白かった」
たったこれだけの内容を伝達するのになぜ10分もかかるのか、などと考えてはいけない。深入りすればたちまち幼児の混沌に飲み込まれてしまう。
さて、いかにも楽しそうに話す次女を前にして、私は何と返そうか考えを巡らせた。時間にすればほんの一瞬だが、その一瞬の中には長女も含め10年近くに及ぶ私の育児史と40年の人生経験の上に現在再構築途中のジェンダー論が詰まっている。
今回はその一瞬の話をしようと思う。
私というマイノリティー
私は今のところ性的マイノリティ―ではないが、HSPという性質を持つちょっとしたマイノリティーである。HSPとは2000年代にアメリカの心理学者が提唱した一部の人間の性質だ。説明すると長くなるので割愛するが、この言葉を知って私はずいぶん楽になった。と言うのも、幼少期からずっと「友達が多いのは良いことだ」「内向的な性格より外交的な性格が優れている」「元気で明るいのが優れた人間である」「一人でいるということは寂しいことだ」等々という周囲の価値観に多大なストレスを感じて生きて来たからである。一時期話題になった便所メシをする気持ちもめちゃくちゃ分かる(メシはしたことがないけど便所読書は一時期していた)。周りと違うのが自分のせいではなく、生まれ持った性質なんだから仕方がないと思えたことで、私は私でいいじゃんと思えるようになった。ただ、現在から過去を振り返ってみて良くなかったなあと思うことが一つある。周りと違う自分はダメなんだと思い込み、自己肯定感が低くなってしまったことである。この悲しい事象は誰にでも生じることだと思うのだけれど、もしここが多様性を承認する社会であったら起こらなかったんじゃないか、起きたとしてもリカバリーできるチャンスがたくさんあったんじゃないかとも考えている。ちなみにここで言う承認という言葉は「事実であると認めること」という意味で使っている。肯定とは別で、ただそこに存在するものを「あるね」と認めるというだけの意味である。肯定も否定も好き嫌いも正誤も理解できる出来ないも、ここで考えることではない。
こどもにめっちゃ教えてる性のお話
というわけで、私は子どもに対して性教育、性的マイノリティ―の存在について結構熱心に教えている。性的な話は人間社会の多様性を知る初歩としては具体的でわかりやすいと思っているし、もし将来子どもたちが自分を何らかの「マイノリティーだ」と認識した時に自己否定をしなくて済むようになるメリットがあると思っている。また、他人に対する寛容さも身に付いて生きやすくなるのではないかと思う。
子どもに教えるために私も改めて性教育の勉強をしているのだけれど、自分の認識不足があまりにも多くて目から鱗が落ちまくる日々である。私の世代も、まともな性教育を受けていないのだ。勉強して初めて女性である自分がいかに性差別や性被害に遭ってきたかを自覚することが出来たが、同時に無意識的に男性差別もしていたことが分かった。40年で染みついた価値観はあまりに深く、正直全てを自覚することは出来ないだろうと思う。けれど、出来る限り自覚してアップデートして行かなければという危機感は死ぬまで持ち続けなくてはいけないなと思っているし、子どもの性別に関わらず、我々世代と同じ思いをさせたり過ちを繰りかえさせたりしてはいけないとも思う。
だけど教育し切れていない多様性
長女に対する教育はかなり順調である。しかし、小学3年生でクソ生意気な長女の教育が順調なのには理由がある。彼女自身が幼少期に性差別を受けてひどく傷ついた経験があるからだ。
長女は小さい頃から特撮が好きだった。幼稚園で男の子のクラスメイトに好きなテレビ番組を聞かれた長女は「仮面ライダー」と答えた。直後、男の子から得られた反応は「女なのにキモい」だったと言う。なぜか巻き込まれ体質の長女はその後も仮面ライダーのTシャツを着ていたら顔見知りの女の子に「女なのに変」と言われたり、おもちゃ屋さんのヒーローコーナーで知らない男の子に「何で女がいるんだよ」とぼやかれたりしたらしい。正直親の私でもそんなに巻き込まれることある?と思うので、仮面ライダー事件のトラウマから生まれた妄想である可能性も否定できないが、長女が心に深い傷を負ったことは間違いないだろう。
対して、である。
同じ姉妹でも、次女への教育はとても順調とは言えない状態にある。次女の場合は「青は男の色、赤は女の色」「男なのにスカート履いてる、化粧してるのは変」と当たり前のように男女を分けることが多い。完全に幼稚園の友達の影響である。そのたびに詳しく話を聞いて認識が間違っていることを諭すのだが、なかなか一筋縄ではいかない。家では「好きなものは好きでいい」という教育方針のため自分の言った偏見に自分自身は全く縛られないのだが、それが社会に対して応用できていない。そしてここでようやく冒頭のテレビ千鳥と話が繋がって来る。
「ノブがスカートをはいて、長い髪のカツラをかぶっていたのが面白かった」
この事象の何が面白いのか、次女に対してはきちんと言語化してフィードバックしなければならない、私は強くそう思ったのである。
もしここで私が「それは面白いね」とだけ言ってしまったとしたら、次女はどのように捉えるだろう。もしかしたら「男が女の格好をしていることが面白い」ことに同意してもらったと理解してしまうんじゃないだろうか。その理解を自分の中で汎用化してしまったら、この令和の時代に表現の性の自由を脅かす若人が爆誕してしまう。一瞬の膨大な考察ののち、私はこう言った。
「ノブがそういう格好すると面白いね」
それを聞いた次女は満足げに、そうなんだよ千鳥って面白いんだよという話を始めた。私はほっとした。「面白い」の矛先が正しく「ノブ」もしくは「千鳥」に向かったと感じたからである。
たったこれだけのこと、と思われるかもしれないが、教育とはこういった地道な一歩一歩の積み重ねであると私は信じている。次女がもう少し大きくなった時に、この小さな言葉遣いの違いが大きな結果となって表れてくれたらいいなと思う。
次女の話はそれから更にとめどなく続き、要約すると
「大悟はいつもノブに変な格好させるからかわいそう。もうちょっとノブのこと考えてあげたらいいと思う。でも大悟も面白い」
というものであった。次女は番宣ポスター撮影の回も、香水を歌う回も周回して見ている。かわいそうと言いながらノブの七変化が大好きなテレビ千鳥マニアなのである。
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