見出し画像

拝啓 又吉直樹さま - 『人間』を受けて

今日は昼から友人宅にビールをもらいに行く約束をしていたので、残り200ページほど残っていた昨晩からの読みかけの本を一気に読み終えた。朝の日課であるコーヒーを飲んでからの後半戦だったので膀胱は破裂しそうだったが、何と戦っているかはわからないけど、読了するまでトイレを我慢した。
昨日から下腹部に痛みがあった。最近心身共に疲れていたからか、些細な変化には鈍感になってしまっていた。

読み終えた。トイレに行った。用を足したあと股間を拭う。まだ生理予定日まで一週間ほどあるのにトイレットペーパーにはべっとりと血がついていた。「生理予定日」なんてあたかも決定事項であるかのように言ったものの、初潮が始まってウン十年。生理不順”じゃなかったこと”のほうが圧倒的に多いのに、何を今さらちょっと早めにお目見えした鮮血に驚きと不快感を表しているのだろうか。

平凡である己の生活を忌み嫌い、何か劇的なことが起きる他人の人生に羨望の眼差しを向け、しかしそんな心の内を他人に知られたくないから何でもないように振舞ってきた。今でもそうだ。実際は想定外のことばかりが起きている、というより"前提"が平凡ではなかったのかもしれない。望んでいた”何か劇的な人生”なのではないだろうか。それすらもわからん。

きっとこの本のせいだ。本当は何日かに分けて読むべき本を、時間の制限の中で無理やり詰め込んでしまったせいだろう。抱えきれなくなった情報量が不要な血となり、股間から流れ出てきただけのことだ。

以前、「人間嫌いの人好き」というサブタイトルのブログを書いていた。さぶい。メインタイトルこそもう思い出せないが、それっぽい四字熟語だった気がする。それだけでもう、すでにさぶい。

又吉直樹氏の『人間』は、冒頭から不愉快だった。自分のことを書かれているような気がしてならなかったからだ。ストーリーを追っているはずなのに、主人公の永山と自分がゆらゆらと重なる。不愉快だ。さらに、永山が「ナカノタイチ」を嫌いながらも一部容認してしまう描写にも共感しかできなくて、それはもう、不愉快を通り越して吐き気すらした。

過去、そして多分今も、私が必死に隠そうとしている己の内面に刃を突きつけられたような感覚があったからだろうか。

血を拭き取ってもなお、股間が気持ち悪いのでシャワーを浴びた。
シャワーを浴びている間、ハタチの頃の記憶を思い出していた。
仲のいい男友達と電車に乗っていた時、目の前のおじさんが面白い歩き方をしていた。
私にはそれが、酔っ払いの千鳥足に見えた。確かに彼は酔っ払っているように見えたのだ。
「あの人めっちゃ面白い歩き方している」と伝えたら、友人は突然神妙な顔つきで、しかし決して私を見ることなくこう言った。
「俺のおばちゃん足が悪いったい。だから他人の歩き方で笑えない」と。

「しまった」と思った。でも弁解はしなかった。そのまま「そっか」とだけ返した。
私は何も悪いことは言ってはいなかった。ちょっとしたボタンの掛け違いだった。
なぜ私は彼の勘違いを訂正できなかったのだろうか。

頭頂部から勢いよく浴びる。湯気で曇った鏡をこする。
目の前に現れたのはボリュームがなくなった髪型になった現代の河童の姿だった。
「ざまぁねえな」
と、どこからともなく声が聞こえるようだった。
数秒後、鏡はまた湯気で曇り始めた。

昨日、仕事日前日の酒を控えようと心に決めたばかりだったが、たぶん今日も昼から飲んでしまうだろう。

又吉直樹さま、私も大概ヘタクソです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?