理想と現実のナナメ下くらいを低空飛行する大人に私はなりたい

思えば私も随分大人になったものだ。

20代中盤くらいまでは、本気で「1人暮らしをしたことないやつは甘い」だの「専業主婦(になった友人)と話が合わない」だの、考えただけで寒気がするようなことを、冗談を交えつつ、しかし割と本気で思ってしまっていたような気がする。

私は18歳で親元を離れたが、ならば、自分ひとりの力で生活できていたかといえば100%NOであり、逆に恥ずかしいほどのすねかじり虫であった。

親のスネはもう、無い。

己が他人をジャッジしている瞬間こそ他人からジャッジされているのだと、そう思う。滑稽にもほどがある。

前述の主婦の友人に対してのソレもそうだ。話が合わないのは当然で、というかそもそも人生のベースも生活のベースも違う。じゃあ例えば私が仕事の話を他人に話したとしても、ただの苦労話に聞こえたり逆に自慢話にきこえたりもするわけで。

捉え方次第なのだ。(伝え方にも気をつけなければいけないのは大前提だが)

一人暮らしだの専業主婦だの、その人自身に向き合わず結果論として同様の肩書きを持つ人を自分勝手にグルーピングし取捨選択してしまっている節は確実にあった。

本来、合う・合わないにその人のステータスは関係ないのだ。わかっていたつもりで全くわかっていなかったように思う。

あれほど肩書き文化に嫌悪感を抱いていた張本人がこのザマである。「自分の顔、今から殴らせてもらいますね」案件である。


はあ、思い返せば、私も大人になった。

数年前、恋人がおらず、そして欲しいと言っていた友人と専業主婦の友人との3人で飲む機会があった。

とある人を紹介してもらったという友人の話になった。友人は相手の服装がどうしても許容できなかったらしい。専業主婦の友人は「服装なんてどうでもいいじゃん」と言った。私もその意見に賛成だった。「好みに近いに越したこたないが最優先すべき案件ではないよな」と。

そして服装が許容できなかった、と言った友人が
「世の中には"普通"のポロシャツがあるのに、敢えてあの色を選び、敢えてあの胸元のデザインを選んでしまうような人と親しくなれる気が全くしなかった」と漏らしたのだ。

これほどの説得力があるだろうか。


思い返せば、私も随分大人になったものである。

しかし、例えば、例えばだが

「ぉはよぉ!今日めっちゃぃぃ天気!」

といった字面のメールを送ってくるような人と新たに友人関係を築けるかと言えば、おそらく「敢えて小さい文字に変換してしまうような人と親しくなれる気は、全くしない」のである。


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