努力=既得権益

「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。」

聖書の言葉である。日本人の俺が飽きるほど聞いたのだから、欧米人は耳にタコで済めばいいところだろう。

これは物質的・即物的な面で引き合いに出される普遍的真理だけど、自分の感じる幸せ……「うまくいった」「気持ちがよい」「満たされてる」とかいう感覚も元はといえばこのマタイの法則でできている。ほとんどは。

少し話が逸れるが、5体満足で健康な人は、平等に運動ができる。与えられた時間も平等なのだから、運動をすればよい。運動はいいことだからだ。

みんなが理解してる通り、我々は呪文ひとつで姿形と振る舞いを変えられるゴーレムではない。運動が続く人・コンスタントにできる人は何かしらの元手があるのだ。奥さんがスポーツウェアを洗濯してくれるとか、犬を飼う財力があるとか、そもそもスポーツ経験がある・運動神経が良くてモチベーションを担保しやすい……など。

こういうことを言うと「俺は普通にゼロから始めて続いたけど?」とか水刺してくるアホがいるけれど、良い習慣だとか良いマインドセット、あるいは良い行いの「元手」が非直線的なことを理解していない。要するに、見えないところで集めた、一見関係なさそうだけど大いに関係のある既得権益を乗りこなしてるだけだ。要するには、その自覚がないだけ。

話を逸らしてまで何が言いたかったかと言うと、自分がプラス資産として抱える「余裕」とか「物質」とか「グッドフィーリング」とか,その他の全部の全部の全部が、望みを叶えたり、維持する、「元手」なのであって、何かを手にしたいと願ったときには、必ずこれを引き出しから引き出さないといけない。懐が余裕あるから、かわいいランニングシューズを買おう。娘の励ましで……物事をうまく運ぶための推論能力がメタ認知能力が、過去の成功体験が、セロトニンが、アセチルコリンが。……自分の抱える「いい要素」を寄せ集め引き出し培養して、願望充足の島に掛ける橋にする。それだけだ。

これは言いようによっては努力の範疇だけれど、その言いようなら元手が著しく少ない人は努力がほぼできないことになる。ほんとうは負の資産のものを元手と勘違いして、努力が空回りすることになる。

努力というのは既得権益の寄せ集めで、努力で掴んだ幸せとは、既得権益の寄せ集めを培養したその先である。つまり努力できる権利を悠々と持っている人と、「悠々と持っている以外の何か」の人がいる。

俺たちはそれぞれの立場でしか物事を語れない。何もない立場から、わずかばかりに光る元手を持っている立場から、ただ恩寵を受ける立場の人。それぞれがいて、それぞれの意識や思考のアルゴリズムは共有できない。なあ、アンタと俺ではカードに描かれた絵の見え方が違うはずだろ?

当たり前のことをつらつら描いただけだけど、俺は何も元出がない人だろうと運動はするべきだと思う。不可能ではないからだ。

1.人間はうそを信じられる
2.人間はうそを信じると「ムリ」ができる
3.「ムリ」をすると元手が出来る

つまり、ムリをして頑張りましょう。

そういうことである。この世にPDCAで人生を改善できるというウソが吹聴されているのは、そのウソを信じた人が信じる力によって本当のことにしてしまうからだ。もちろん、狂信者として聖典を誦んじるほどに強力な信心で。

「持たざる者は何をやってもムダ」というのは本当のことだ。ただしそれは理論上の話で、実際には「本当のこと」を「本当だと信じた瞬間」から真になる。

「ムリをして、頑張れば救われる」という偽の物語も、理論上は偽というだけだ。お前の信じる想いがあまりにも強すぎる場合、それが嘘なのか真なのかはくそどうでもいいことになる。だってお前は神を信じたからな。




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