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浅草の鮨屋とグリーフケア

私はいつもの通り相変わらず酔っている。
酒だ。
酒が必要だ。
酒だ酒だ酒だ。
その上で書く。

グリーフケアとは何か?
その定義は私にも分からない。
第一、死別に関して声高に苦しみを伝える人が世の中には殆どいない。
親との死別。
順番的にはこれが一番自然なことだろう。
皆、それを順繰りに経験する。
私とて、親との死別が真に大人になるための登竜門だと勝手に思っていた。
8歳かそこらのころ、親が死ぬことが何より怖かった。
何よりも本当に怖かった。
親と永遠に会えなくなる等と言う事は、子供心に想像しうる最大の地獄であった。
それが原体験だ。

グリーフとは何か?
死別などによる深い悲しみの事を言うらしい。
しかし、当事者にとってそんな簡単な事ではないと思う。

30代、40代、50代と自分の社会経験の中で、若い頃に描いていたものと現実とが全く異なる事を自覚しながら、社会に馴染んでいく。
かなりはしょって言っているが、あらゆる事がそんなに簡単なものじゃない。
31歳、32歳、1年1年、みんな、己の置かれている状況を噛みしめながら、なんとか成長したいと思い、生きているはずだ。
世の中では30歳などいっぱしの大人だとみなされる風潮もあるが、殆どの人に倣っていえば、30代の前半なんて、所詮ガキだ、と私は思う。
私の主張に根拠は無い。
しかし、ただそう思うだけだ。

グリーフとは何か?
死別とは何か?

その事に、答えは無いだろう。
そう思う。
グリーフケアだと言っている人や団体があまたある。

グリーフとは何か?それぞれの状況が当然に異なるこの問題に、がっぷりよつで時間を割いてくれる人達がいるのか?
少なくとも私はそうしたケアの時間を経験した事が無いし、十分に満足したと言う人にも会った事がない。

死別についてあまり積極的には語ってはならない、そうした雰囲気ある様に思う。

語っても良いですよ、どうぞ語って下さいと言う人々もいる。しかしそれらの人にそれらを語らせる知見や受容力があるのかはわからない。

全ての事に言える。

困ったら、ため込まないで相談して。
必ず助けてくれる人がいる。

嘘だ。

本当に限界事例に達したとき、相談できる相手などいない。

みな、うわべトークで済ませるだけだ。
それを、知っている。

当事者体験で言えば、少しでも相談できる相手を必死で探さねばならない。
こいつはホンモノなのか?と腹に一物を抱えながら、こちらは礼儀正しく相手に不愉快に思われないように緊張していなければならない。

相手が、警察だろうが、検察だろうが、弁護士だろうが、被害者支援の専門家だろうが。
こいつらは、単にルーティンをこなしているだけだろ?と思いながら、どこで自分のまっさらな気持ちを打ち明けて良いのか、そのタイミングを必死で探している。
それが、犯罪被害者の事件後60日前後の心理だろう。

自分のまっさらな気持ちを打ち明けたが最後、相手のルーティンの流れに組み込まれるだけだ。
そんなことは、普通に社会人をやっていれば誰にでもわかる。
だから、簡単には流れには乗れない。

その、善意の流れにあらがってでも、自身の「ねばならない」事を保持し続けるのは、実は、超難関だ。
これは、この事を経験した人なら絶対にわかる。

しかし、グリーフケアと言う世界は、そう言う事には無頓着だ。
あくまで、死別という大きなテーマでしか語っていない。
これは、あくまで私の個人的な感想である。

話を変える。

我々夫婦は、グリーフケアと言うものが良くわからなかった。
コロナでリアルの世界への接触を禁じられていた事にも起因する。
とにかく、子との突然の死別にどの様に対処してよいのか、どの様に残りの人生40年近くを過ごせば良いのかわからなかった。

まず、外出が出来なかった。
妻の心の内の詳細については知った風には書けない。

私は、仕事に復帰しても足が不自由だから朝はタクシーで出社した。
タクシーの粗い運転に、事件のフラッシュバックの恐怖を思い出しながら、浅草、両国、日本橋を抜け、大手町までタクシーで通った。
帰路は、何とかエレベーターで半蔵門線にたどり着き、押上まで帰った。そこからはまたタクシーだ。
押上の駅で、娘と待ち合わせた光景を何度も思い出し、何事も無い人達を恨めしく眺めた。
そして、押上からタクシーで帰宅した。
加害者が娘を轢いた道を通って。

グリーフケアとは何か?
今ここに述べたような話を妻以外に聞いてもらった事は無い。
妻は、自身が救急車の中で娘の臨終に立ち会った限界事例の体験者である。
私の話など、客観的に聞けるわけがない。

グリーフケアを学んだと自称する殆どの人が、自身の体験の延長線上にしかチャンネルを持っていない。

これは、かつての被害当事者しか被害直後の被害者の支援にあたっていないのと同じではないだろうか。

親との死別、配偶者との死別、兄弟との死別、そして子との死別。
これらは全く性質が違うものだと、グリーフケアの当事者なら痛いほど分かっているはずだと思う。
間口を広げれば良いと言うものではない。
これらの性質の違いを分かって現場にあたっているのか、それとも、極限を知っているから自分は間口は広いと自認しているのか?その事の履き違え感は、グリーフケアと言う言葉を目印に頼ってくる悲嘆者にとって、実はかなり大きな事だと思う。
雰囲気で済まされる話ではないと思う。

要は、全てが理論的にも実務的にも「振り返り作業」に無縁なまま、個別的な体験の峻烈さに依拠して進んで来たのではないか?
当事者としてその様に思わざるを得ない。
それは、ただの雑感めいた批判であって、なにか特別な普遍性も底上げ的な代替案も持ち合わせていない事は白状しておく。
ただ、限界事例の傾聴者たる受け手は、セーフティーネットなどはなくて、結局は個別的な体験者、すなわち、「色々経験した良い人」という、一見間口は広いが、実際は極めて不安定な人による支えでしかない気がする。
勿論、「色々経験した良い人」に罪はない。
間違いなく良い人だ。
しかし、そうした雰囲気に限界事例の人が、まっさらな気持ちで飛び込んで頼ったところで、お互いもつわけがない。
東日本大震災の時、どうだったのか?私は知らない。
一日本国民として、これはヤバいと些少の募金をしたぐらいだ。
原発の影響を案じて親戚からは九州に逃げろと言う電話が入り、笑ってそれをいなした程度の経験しかない。

東日本大震災で阪神淡路大震災で東京大空襲で沖縄戦でグリーフケアの知見が深まったのか?私には良く分からない。

沖縄は、娘が死んで、その事実を持って仕事に行っていた。
しかし、グリーフなんてものは無かった。
沖縄戦で沢山の親が沢山の子を失った話は聞いた。
爆撃を受けて自分の子の肉片と骨と皮が、自宅の木にぶら下がっていた話を娘が死んで初めての出張の時に聞いた。
そして、皆その後も生きて来たという話も聞いた。
尖閣と沖縄の現実的な話も聞いた。
仕事だから黙って聞いた。
沖縄でかつて限界体験をした方々に語り継がれている事が、「悲惨だった、でも生きるしかないと言う事だった」と理解した。

しかし、それが本当に当事者の声だったのかは分からない。
少なくとも、話をしてくれた人は当事者ではなかった。
では当時者が論理立てて普遍的に語れるのか?

個人的には語れるわけが無いと思う。

それをどう語るか?どの様に社会の問題とするか?
多分に政治的な話なので、その話を私はしない。

グリーフ、死別、悲嘆、悲しみ、苦悩、は多分に個別的な問題であると思う。
その事に、普遍的な包容力を持って当たる事は重要だと思うし、人類はずっとその事に向き合って来たのだと思う。
その事に宗教が果たした役目は大きいだろう。
それは、すなわち、宗教が多数派を分かり易く標榜したから。
この社会で生活する以上、仏教式で葬式を上げ、法事をし、墓を守る。
そう言う多数派を前に、個別の悲しみは、ある種の強制的な団結の理論の前で沈黙を余儀なくされたのではないかと。(日本では)
それは、日本がと言う事ではなく、往々にして人類が進めて来たマジョリティー理論ではないかと思う。
ざっくり言って、それは間違っていないと思うし、そうせざるを得ないだろう。つまり、マジョリティーの理論は、相対的には致し方ないものと思うのが私の立場だ。

しかし、マジョリティーとは何か?と定義を考える時、力学的に強いものであると言う単純な理論には賛同できない。
そうした種類の事をここでこねくり回すつもりはないが、そうした単純な力学のみで構成されているわけではない事は、世の動きを見れば誰でもわかる事だ。

どこまで限界事例の声を取り入れて最大公約数の枠を取るかが、昨今のテーマだと思う。

限界事例をどの様に取り入れてもらうのか?

グリーフケアからその具体的な道筋を教えてもらった事はない。
被害支援支援からも、被害支援団体からも同様に教えてもらった事はない。
皆それぞれですよ、と言う事を、ただ静かに自覚する事を促されるだけだ。

さて、話は今日の事である。

ある鮨屋に行った。

いつ初めて行ったであろうか。
私がまだ勤めていた頃である。

娘を失って約3ヵ月で仕事に復帰して、職場でも、帰宅後の家でも、日常を取り戻せるわけが無かった。
その事に苦悶していた当時、見つけた逃げ場は鮨屋だった。

行った事が無い、鮨屋。
鮨屋は安くない。
だから子連れとも遭遇しない。
ご近所さんもいない。

そうした、マジョリティーからすれば愚劣な公式の元、我々はいくつかの鮨屋に通った。

グリーフケアの専門家には分かるだろうか?
マジョリティーには分からないだろう。
子との死別、犯罪による突然の、全く突然の死別。
一歩外出するのも苦しい。
無理やり勤務先に赴く以外は全てが困難である。
私は、足をやられたので、タクシーで通勤した。電車通勤など、当時の精神状態では不可能だったであろう。
電車に乗っている当たり前の日常過ごす人々とは、仕事と言う社会性を帯びた作業以外では一切接触できない。
それ程に心に傷を負っているのである。
これは、多分私だけではない。
同様の体験をした人は殆どが当てはまる事だろう。

そうした、一般的には想像もつかない様な精神状態のなか、逃げ場として鮨屋に行った。
安くはない。
だから、何月何日、どこどこの鮨屋に行く。
その事を目標にして、仕事をこなし、生活をこなすと言う事をしていた。
鮨屋に行って救われる訳ではない。
ただ、日常ではない、非日常を一瞬味わえる。
日常は、一人娘を失った親と言う現実に常に晒されている。
非日常はそう簡単には手に入らない。
鮨屋でカウンターに座り、夫婦互いの視線をただただカウンターの向こうに向けて、その空間に逃げる。
それは、ある種のグリーフケアであった。
それ以外に逃げ場は無かった。

最初は近場の徒歩圏内、あるいはタクシー1,000円圏内の馴染みの町の鮨屋に行っていた。

勤務先に出る以外は、極度に抑鬱的になっていた私を目の当たりにして、妻もしんどかったのだろう、次第に、少し足を伸ばして鮨屋を探すようになった。

だましだまし。

行先の距離を伸ばした。

向島の鮨屋、そして浅草の鮨屋へと出かけるエリアを広げた。

今日、行ったのがその浅草の鮨屋である。

初めて訪れたとき、カウンターは満席で、個室に通された。
個室に向かう際の通路に明らかに遺影があった。
覚えていないが、2020年の事であったと思う。
遺影の主は、その店の店主であった。
まだ若い。40代後半か。

全く普通の人には分からない事だろうが、我々夫婦は重い心が少し軽くなった。
この店にも死別がある。それを背負って営業している。
しかも、味も我々が知り得る値段帯の店では白眉の店であった。

次にいつ行くのかを決めて、その後の生活を繋いだ。

2回目だったか3回目だったか忘れたが、カウンターに座り、静かに店の流儀に従って、非日常の流れに身を委ねる中、偶然に客として同席した、下町の鰻屋の名店の女将が自身も交通事故で子を失ったと言う話を聞き、静かな鮨屋の中でその女将と妻が大声で泣き、抱き合うと言う事もあった。

その様な事を、鮨屋のカウンター越しに何故できたか?
それは、その鮨屋が死別の当事者であったからであろう。(我々がそれに甘えたともいえる。)

その鮨屋の大将は、亡くなった店主に店を任され、30代でその看板を引き継ぐと言う重圧の中で、一人、カウンターに立っていた。

亡くなった店主の奥様である女将は、淡々とホスピタリティーに満ちた接客をしていた。

死別後も、仕事をして、生きて行く、その構えを見せてもらった様に思う。
もちろん、同じようには出来ない。
しかし、定型の慰めの言葉よりも、マニュアル染みたカウンセリングよりも、一時の誤魔化しの投薬よりも、その大将と、女将と、行き届いたスタッフの動きが、我々に、少なからずある種の方向性を与えてくれた。

その後、我々は事あるごとにその鮨屋を訪れ、淡々と成長を遂げて行くその若き大将に握ってもらって来た。

先代を失い、その看板を守り、自身の看板に引き継いだ若き大将。
先代である夫を失い、その看板も従業員も若き大将の立場も守った女将。
その女将は若き大将の新しい店にも引き続きスタッフとして店に出ている。

鮨屋で大将を失うと言うのは、ほぼ廃業に近い事だと思う。

しかし、若き大将はその看板を守り、全ての構えを承継して、自身の店を出した。
先代のスタッフを女将も含め全て連れて。

日々の営業で継続せざるを得ない事、どこまで承継するか?全てをリフレッシュするか?
そうした葛藤が絶対にあったはずだ。

しかし、今日も変わらず、変わらぬスタッフでカウンターを満席にしている。

妻はどう思ってるか分からないが、これは私にとって間違いなくグリーフケアの一つだっただろう。
死別を抱えながらも変わらず、踏ん張り続ける姿を見せて頂いた。
しかも、レベルをブラッシュアップして。

しばらくはこの店には行けないだろう。

私は、お会計後、初めて女将とハグをした。
そうした関係が確かにあったと思う。

エピソードではない。

向き合っている人と人の、信頼に基づく対面が、事を紡ぐのである。






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