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相対的にマシな方向に

相当久々に訪れた蕎麦屋のテレビから、パンパンと音がした。
「久しぶりだな」と言う興奮混じりの声が次々と近くのテーブルから上がる。
4年ぶりに開催された隅田川花火大会のテレビ中継である。
4年前の隅田川の花火は、娘の保育園時代の友達家族と荒川の土手から眺めたはずだ。

この4年の歳月の中で私達に起きた事は誰にでも語れる事ではない。

世の中のあるゆる物がパンデミックで狂い、日常を失い、各々に鈍い痛みが走る中、私達は更にそれとは全く別の次元で日常を失った。

コロナ前、コロナ後。

私達は、事件前、事件後である。

テレビの画面からパンパンと聞き覚えのある音が鳴り、画面がチラチラと光ったのが分かった。
でも、遂に画面を見る事は無かった。

この一年の間、自身が失った日常について、絶対にただでは済ませられない、とそればかりを考えていた。
絶対にただでは済ませられないとは、結局のところ何をする事なのか?
その事にはっきりとした答えがあった訳ではない。
ただ、うわべの憐憫や馴染みの物語の枠にはめられる事には断固として抵抗したかった。

その事ばかりを考え続けて徐々に分かって来たのは、ある時間軸で自分が出来る事、出来そうな事には限界があると言う事だった。
どんなに地団駄を踏んでも、限界があり、壁がある。
そして、考えれば考える程、問題の完全な解決は不可能だと言う事を認めざるを得なかった。

先日、あるYouTube番組での対談を見ていたら、賢い学者達がこんな事を言っていた。

「社会のアンバランスを完全解消する事は難しい。しかし、不断にそれを緩和させていく、是正させていく、望ましい方向に変化させていく運動を繰り返す事を辞めてはならない。」
「相対的にマシな方向に動かしていく。その変化の必要性について社会の多くのメンバーが同意している状態(マインド)が必要。」

タラタラとYouTubeを見ながら、そうだろうなあと思った。

この7月、幾つかの対面があった。

その中で印象的だったのは、少数派が社会の多くのメンバーの同意を取り付けている事を表す手段として、今もなお署名活動に頼らざるを得ない現実に対するジレンマの言葉だった。

「プライドを傷つけられ、起きた事を晒して、それでもなお署名活動をしなければ、スポットが当たらない。本来は永田町や霞が関が汲み取って考えるべきことなのに。」

これも、本当にそうだなと思った。

相対的にマシな方向に動かしていく事を志向する中での出会いは、素晴らしいものが多い。

事件さえなければ、出会う必要が無かった人達。

相対的にマシな方向に動かしていく事の志向はえてして同心円ではない。
しかし、その円の一部が重なり合う時を共に確かめ合う事こそが、運動を続ける上で不可欠である。

テレビから聞こえる隅田川の花火の乾いた音の中、酒を傾けつつそんな事を思っていた。








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