『ウトヤ島、7月22日』

『ウトヤ島、7月22日』

2011年7月22日、ノルウェーで起きた連続テロ事件は、単独犯として最悪の77人の犠牲者を出した。
記憶にはあったが、その詳細を当時調べることはしていなかった。
2011年3月11日以降と言えば日本にとっては東日本大震災のことでいっぱいだったということもあっただろう。
 
2018年、凄惨な事件から7年を経て、ノルウェー人によるノルウェー語でこの事件をテーマにした作品が公開された。(日本では2019年3月公開)
 
映画の概要、特殊性についてはこの優れたブログを参照していただければと思う。

映画巡礼記 第36回:「ウトヤ島、7月22日」
http://blog.livedoor.jp/akitaallnight/archives/55034274.html
 
 
映画という表現として端的に私の感想を言うならば、個人的に大好きな撮り方だった。
72分のワンカット撮影は当時の犯人が捉えられるまでの72分間であるが、カメラはそこにいた一人の人間としても感じることができる。主人公カヤを追っているのだが、カメラもまたそこの人たちに介入できる存在ではないが、記録の証人として事件の只中におり、まさにそれが劇場にいる観客を事件の現場に否応なしに連れ込んでいる。
私は何度か映像を見ながら頭を下げて上目遣いになった。それだけ緊迫して没頭させるチカラがある。恐怖の72分間であった。
事件については知っているという前提で劇中では犯人には触れない。
誰だが分からない、何が起こっているか分からない、それがあの場で経験した人の多くが思っていたことだから。
そして話しを盛り上げる音楽ももちろんない。
電話の向こうの人が何を話しているかも聴こえない。
登場人物とストーリーはフィクションであるが、全く問題ない。
例えばこんなバックボーンを持ったグループがいたとして、巻き込まれたらどうであったか、を描いている。
もちろんたくさんの取材をして、あえてフィクションを選んでいる。
この映画を上映することの反対者ももちろんいた。
ではこの映画が単なる歴史的な事件を描いた、映画的にもオモシロイ手法で撮った“いい映画”で終わっていいのか。
それではダメだと思う。
これをもとに議論をしなければこの映画が作られた意味はないだろう。
 
 
私がここで議題に挙げたいのはパンフレットにも書かれていたことでもある。
 
「ブレイビクのような人物を二度と出さないために、私たちは何ができるか
移民に寛容的なイメージが強い労働党には、イスラム教徒を増やす政党だというような陰謀説が以前からインターネットで広がっている。ブレイビクの思想の根幹ともなっているものだ。彼のような人を二度と出さないためにも、ネットでのヘイトスピーチや脅迫はなんとかしなければならないとされている。
中略
テロ、ネットでのヘイト、ポピュリスト言論、極右政党の台頭のニュースが当たり前のようになってしまった今。憎しみ、悲しみ、偏った思い込みが、オフラインでもオンラインでも広がりやすい情勢だからこそ、ノルウェーが出したテロへの反応は、人々にふと何かを考えさせるのだ」
 
キーワードの一つに極右がある。
犯人であるブレイビクはテロリストだが、テロ組織に属していない。いわゆるローンウルフだ。
ISISなどの台頭で世界各地でテロを起こす孤独な存在は知られるようになった。
そしてこれこそが防ぐことが困難な存在だ。
パリでも大きなテロが起きたのは記憶に新しい。
オルタナ右翼とも言われる彼らをテロへと向かわせる社会とは何なのかを見て行かないと解決はできないだろう。
 
組織としてのテロは“掃討”という武力行使で防げると思っている。
それは一つの側面でしかない。
憎悪は憎悪を生む出すだけだと歴史が何度も証明しているのにそうなってしまうのは、人間として避けがたい感情の問題がある。
ノルウェーがこの事件で主張するのはその憎悪の連鎖を断ち切ることであり、そういった政治判断が出来るところが凄いなと思う。
 
オルタナ右翼が承認欲求を満たす手段としてインターネットの存在は欠かせない。
見たくないものをみずに、見たいものだけを見る。
マイノリティであるのにそれを感じさせない環境が更にそれらを加速させる。
確かにそれは精神鑑定にかければ社会からは逸脱した別世界を生きている人間とも判断ができる。
ブレイビクも一度は精神鑑定で責任能力無しとされている。
 
翻って日本ではどうだろう。
日本でも同様のテロは実は起きている。
日本ではそれを“通り魔”と呼んでいる。
2008年、秋葉原で起きた殺傷事件は加藤本人が政治的意思がなくとも、当時の社会に対する圧倒的な憎悪によって引き起こされた立派なテロであった。
この事件で私は批評家の東浩紀氏を知り、社会学者の宮台真司氏を知り、ジャーナリストの神保哲生氏を知った。
東氏は事件を受けてすぐに“これはテロです”と発信した。
日本ではむしろ政治的意思を持ってテロを起こすことは今となっては可能性は低い。
学生運動からの連合赤軍事件を通して一種のファッションとしての抵抗は長く続くものではない。
せいぜい“ネトウヨ”として匿名の傘の下でヘイトもどきを続けるだけだ。
しかし、それを放置しておくことは歴史の相対化も起こり、社会は益々不安に包まれてしまう。
だから正当性や正義は一つの道筋を提示しなければならない。
それが政治の役割だが、日本はデュ―プロセスが崩れてきている。
損得勘定の価値基準でそもそもそれらが存在した意義や過程を無視して法律が制定されていく。
ジャーナリズムもまた自らの生き残りを最優先事項として権力のチェック機能を果たせない。
 
この映画を見る日本人にとって、こういった自国の現状と未来について語ることが、映画を作った監督なり制作人の思いではないだろうか。
 
事件で犠牲になった若者は、政党の青年部のサマーキャンプだ。若者たちによる活発な政治議論が行われる。
ノルウェーではこういった下部組織が独立して存在しているようだ。
例えば同じ労働党でも、本部のオトナたちと青年部で意見が対立することも当たり前のようで、こういった自由な議論を通して政治家が育っていく環境がある。
素晴らしい。
日本では絶対に縦割組織になって、そこでゴマをする奴が出世をすることになるんだろう。
それは民主主義とか自由とかの本質的価値が分かっていないからだ。
 
福澤諭吉の『学問のすすめ』を読み終えたが、江戸時代から脈々と流れていたこのメンタリティを破壊しないと近代化できないことを語っている。
日本はどうしたらこういった社会をやめることができるのだろう。
理解している人は多いはずなのに、結果が伴わない。
“知”の他に“血”も必要なのだろうか。
しかし、本質的な議論を避けての“血”はムダになるだろう。
連合赤軍事件がそれだ。
 
 
最後に最近読んだこの本、『ダークウェブ・アンダーグラウンド』(https://www.amazon.co.jp/dp/B07NDWVBHR/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
は前半をダークウェブの特徴や歴史を述べ、後半でこの世界の住人たちにスポットを当てており、専らオルタナ右翼の思想を持つ人間がねじ曲がった正義感で現実世界に抵抗していることが分かる。
犯人の行動原理を理解するためにも参考になるし、webにおける裏社会も見えておすすめだ。

そしてこういったサイトもあった。
 
【69人死亡】ウトヤ島銃乱射事件の生き残りだけど、なんか質問ある?【ノルウェー連続テロ事件】
http://askmeanything.blog.jp/archives/1006358678.html
 
日本でいう2chとは違うことはこのブログの管理人のはじめにを見れば分かるだろう。
日本の匿名掲示板は無法地帯で何某かもわからない人間が適当にチラシの裏をつぶやく場でしかなかった。
この本家の掲示板はそうではないようだ。
この事件のサバイバーの証言もその場にいた500分の1だろうが、事件を考える上でとても参考になる。