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中日ドラゴンズの永久欠番「15」、初代ミスタードラゴンズ西沢道夫氏とは?

皆さんは西沢道夫という選手を知っていますか?

生年月日 1921年9月1日
没年月日
 1977年12月18日(56歳没)
出身地 東京都
右投右打
投手/内野手
名古屋軍-中部日本軍-ゴールドスター-中日

プロ通算成績
投手成績
231試合 防2.23 60勝65敗 404奪三振 WHIP1.35
66完投 10完封 投球回1297.0 

打撃成績
1704試合 打率.286(5999-1717) 212本 940打点 OPS.788 56盗塁

個人タイトル
首位打者1回(1952年)
打点王1回(1952年)
ベストナイン3回(1950年、52年、54年)

中日ドラゴンズ永久欠番
1977年 野球殿堂入り

永久欠番とは野球等の背番号を使用する運動競技で、優れた功績を残した選手の栄誉の記念として、その人の使った背番号をチーム内で永久に他の人が使わないようにすることを言います。

プロ野球においてもそれぞれの球団に永久欠番はありますが、中日ドラゴンズにおいても永久欠番は2つあり、背番号10と背番号15が永久欠番となっています。

背番号10は服部受弘氏、背番号15は西沢道夫氏が着けていたのですが、その背番号15を着けていた西沢道夫氏は初代ミスタードラゴンズと呼ばれており、まさにレジェンド中のレジェンドの選手でした。

ミスタードラゴンズといえば現中日ドラゴンズ監督の立浪和義監督、2012年から2年間監督を務めた高木守道氏がおり、この2人の現役時代の実績や活躍は語り尽くされていますが、西沢道夫氏に関しては語られることがほとんどありません。

永久欠番であり初代ミスタードラゴンズ。まさにスーパーレジェンド。一体どんな選手だったか紹介していきましょう。

①史上最年少で試合出場

今から102年前、1921年9月1日に西沢道夫氏は東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区)で生まれました。
1936年、プロ野球リーグが誕生した年に当時15歳ながら名古屋軍(後の中日)の入団テストを受け、投手として合格しました。

しかし15歳という若さのために年齢制限で選手登録ができず、養成選手(練習生)として名古屋軍に入団し、その後、1937年秋シーズンの9月15日、金鯱戦においてプロ入り初出場を果たしました。
この時の16歳と4日でのプロ入り初出場は今だ破られていないNPB記録となっています。

ちなみに西沢道夫氏は身長182センチと戦前当時ではかなりの長身であり、背番号についても1937年の1年間で0→14→5と3回も変更し、翌年には背番号17へ変更しました。

②投手としての活躍

デビュー後の1938年(当時17歳)の春シーズン秋シーズンは合わせて27試合に登板し、春秋合わせ6勝10敗
1939年(当時18歳)には31試合登板し6勝10敗、9完投と着々と力を付けていきました。

そして1940年(当時19歳)には
44試合 防1.92 20勝9敗 107奪三振 投球回276.1
20完投 6完封
と投手の柱として覚醒しました。

その後、1942年5月24日(当時21歳)の大洋戦において、相手先発の野口二郎氏(愛知県出身の通算237勝の鉄腕)と投げ合い、延長28回完投、球数311球世界最長記録を樹立。今なおこの延長28回完投は破られていない不滅の大記録となっています。
なお野口二郎氏も延長28回完投、球数344球、試合は日没のため引き分けとなりました。

また、同年7月18日の阪急戦において、球団史上初のノーヒットノーランを達成しました。
つまり中日ドラゴンズの初代ノーヒッターでもあります。

しかしながら、偉業を成し遂げた1942年の成績は、
35試合 防1.75 7勝11敗 52奪三振 投球回211.0
9完投 1完封

と打線の援護に恵まれず負け越しとなりました。

そして1943年のシーズンを終了後、1941年に開戦していた太平洋戦争のため、戦争に招集されました。

③戦後プロ野球に復帰するも移籍

1945年8月15日に終戦。1946年にプロ野球も再開し、西沢道夫氏は中部日本軍(後の中日)に復帰しました。
背番号も以前の17を着けていました。

西沢道夫氏は当時26歳。しかしながら戦争の影響により肩を壊し、
23試合 防4.65 5勝8敗 奪三振21 投球回117.1 3完投
と、
投手として思うような成績を残せませんでした。

さらにチームの内紛により雰囲気は最悪の状態。チームに嫌気が差していた西沢道夫氏はシーズン途中に当時の新球団ゴールドスター(後のロッテの前身球団の一つ)の坪内道則選手兼任監督に誘われ移籍し、移籍後、投手から一塁手に転向しました。

なお、この坪内道則選手兼任監督は以前から西沢道夫氏に尊敬され、父のように慕われる仲であり、西沢道夫氏の打者としての素質を見抜き、打者として再生させるために勧誘したとのことでした。

④打者転向、中日復帰へ

野手転向後は1日1000回の素振り等の猛練習に明け暮れ、1948年には当時阪神の新人選手の別当薫氏(NPB初代トリプルスリー達成者)の打撃を参考に自身の打撃改造に取り組むと、同年(当時28歳)には
130試合 打率.260(508-132) 16本 60打点 OPS.731
と、自身初の二桁本塁打を達成し、長打力が飛躍的に向上しました。
なお、この年に背番号15を着け始めました。

すると、当時の中日監督である天知俊一監督から打撃を評価され熱烈な勧誘を受けると、「坪内さんも一員に加えて下さい」と懇願し、1949年には坪内道則氏とさらにゴールドスターで世話になった三富常雄氏と共に中日へ移籍、復帰を果たしました。
復帰後も背番号15、これが後に永久欠番となります。

⑤球界屈指の強打者へ。チーム日本一に貢献

復帰後の4月から25試合連続安打、5月には11試合連続打点と開幕から打ちまくり、
136試合 打率.309(554-171) 37本 114打点 OPS.933
と一気に球界屈指の強打者となりました。 

なお、25試合連続安打と11試合連続打点は今だ破られていない球団記録となっています。

その後、1950年(当時30歳)には
137試合 打率.311(562-175) 46本 135打点 OPS.981
と圧巻の成績を残し、さらにシーズン満塁本塁打5本という今なお破られていないNPB記録も樹立しました。

また、シーズン46本塁打とシーズン135打点については、2006年にT.ウッズ氏がシーズン47本塁打、シーズン144打点を挙げるまでに56年間破られなかった球団記録でもありました。

ちなみに1950年については、首位打者は阪神の藤村富美男氏(ミスタータイガース)が打率.366をマーク、本塁打王と打点王は松竹の小鶴誠氏(戦前1942年、43年、戦後1946年、47年まで中日でプレーした西沢氏の同僚)が51本、161打点をマークしたため、西沢道夫氏はベストナインのタイトルのみに終わりました。

1951年(当時31歳)からは選手兼任打撃コーチとなり、1952年(当時32歳)には、
113試合 打率.353(433-153) 20本 98打点 OPS.985
の成績を残し、首位打者、打点王の二冠王となり、自身2度目のベストナインを受賞しました。

そして1954年(当時34歳)はチームの主砲として、
126試合 打率.341(498-170) 16本 80打点 OPS.900
という成績を残し、球団史上初の日本一の立役者として活躍し、自身3度目のベストナインを受賞しました。

⑥現役引退。監督就任も病に倒れる

1955年(当時35歳)、一塁手から外野手へコンバートを要請されると、西沢道夫氏はこれに抵抗するかのように突如失踪。結局外野手コンバート案は撤回され引退するまで一塁手としてプレーをしました。

そして1958年(当時38歳)、「僕にはもう野球にかける情熱が無くなった」と言い、現役引退となりました。

この時に日本一に導いた功績を讃えるため、同年に現役引退を表明した服部受弘氏の背番号10と共に、西沢道夫氏の背番号15は永久欠番となりました。

現役引退後は解説者として暫く現場から離れていましたが、1963年に背番号15を引っ提げ、打撃コーチとして中日へ復帰すると、1964年にはシーズン途中に成績不振で休養した当時の杉浦清監督の代わりに監督代行を務め、1965年に正式に中日の監督に就任。

かつての恩師、坪内道則氏をヘッドコーチに招聘し、1965年から1967年までチームを3年連続2位に導きました。
また、監督時代には1番中利夫氏(1967年首位打者)、2番高木守道氏(説明不要の2代目ミスタードラゴンズ)という超強力な1、2番を抜擢し固定、チームの得点力を大きく向上させました。

しかしながら1968年に十二指腸潰瘍を患い体調が悪化し、監督を辞任。さらに1970年には脳血栓を患い、解説者生命も絶たれてしまい、長期の闘病生活となりました。

なお、監督時にも着けていた背番号15は辞任後、完全な永久欠番となりました。

1977年に野球殿堂入りを果たしましたが、同年12月18日に心不全により56歳の若さで亡くなりました。



これが、初代ミスタードラゴンズ西沢道夫氏の生涯です。

プロ野球黎明期と現代野球では環境も技術も一切違うので、単純に比較することはできませんが、投手としてシーズン20勝を挙げ、野手転向後に打者としてシーズン40本塁打を達成した選手はNPBでは西沢道夫氏しかおらず、唯一無二の大偉業です。

正確にはメジャーリーガーの大谷翔平選手のような二刀流選手とは言えませんが、それでも当時のファンからしてみれば、スーパースターであったことには間違いありません。

また、投手として延長28回完投、打者としてシーズン満塁本塁打は今だ破られていないNPB記録。去年のヤクルトの村上宗隆選手ですらシーズン満塁本塁打は4本に終わっています。

投打に渡り規格外の実績を残した西沢道夫氏ですが、性格は非常に心優しい人物だったそうです。

まさにミスタードラゴンズと呼ばれるべき、偉大なプロ野球選手ですね。

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