書くために必要な作業は統計のための暗記、ノット評論


戦うための力。

それってどういう風に積み上げていけばいいんだろう。

今回は、こと書くという作業のために必要な力をつけるために必要なことを考察してみる。


まず、書けるようになるためにまっさきにやるべきなのは、

映画や舞台やテレビドラマを観る、ということだろう。そのとき、
その観たものがおもしろいとかおもしろくないとかは、書く力をつけるのにあまり関係ない。

おもしろいおもしろくないはただの提供される側の個体差なので重要ではなく、
重要なのは、「統計」。

どんなバックボーンを持った人間がどんな表現を提供されてどのような表現でそれを評価しようとするのか。

大体のところの統計が取りたい。
それにしか興味がない。

この課題には変数があまりにも多い。
ゆえに、必然的にかなりの時間がかかる。

まず当たり前だけど観客は不特定多数なわけだから、観察しなければならないバックボーンも不特定多数、これに関しては臨機応変に観察しなくてはいけないんだけど、とりあえず変数として固定しとく。複雑すぎるから。(本当は、人間をなめた態度で単純化、分類すればかなりの範囲で把握できる)

一番肝になってくるのは、やっぱり「それがどんな表現か」をできるだけ正確に観察する、把握すること。

他者の表現を正確に観察する、把握するとは何か。
具体的に言うと、例えば映画を観にいったら、家に帰ったら、というか帰ってる途中からどういう順番で、どういうシーンで、どういう交渉が行われてたか覚えている範囲で書き記すこと。で、分からないところはもう一度観て埋める。

僕はこう思うとか、私はこう解釈するとか、前半が長いとか、無駄なシーンが多いとか、まして好みとか、感想なんてくその役にも立たないから。

何が書いてあったかをできる限り「暗記」する。
暗記を積み上げる。暗記はめんどくさい。かなりつまらない。
暗記したものを分類、整理するのはもっとめんどくさい。

それなしに評論をはじめるのはムダ。

評論は簡単だ。評論はきもちがいい。だからみんな評論をはじめちゃう。

でもダメ。それじゃなにもうまくならない。

これも結局は物量を要する。簡単じゃない。
暗記抜きに自己の内面で勝手に葛藤してるやつは笑える。
クレーバーじゃない。

暗記を積み上げていくと、おもしろいことに気づいてくる。

暗記というと、機械的な感じがするけど、
本の上に現れる人間の有機的な感情的な流れも、ミクロな部分では実は法則とか、一般性があって、暗記で賄える、のかもしれないという。

センスが問われるけどね。かなり。暗記と有機が織り交ざっていく感覚を、共有できる他者は多くない。

「評論でなく暗記を」

これに気づくにかなりの時間を要する。

しかし、「統計」には勘の部分をできるだけそぎ落としていく必要がある。

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