【刀剣乱舞】伯仲に関する個人的解釈①

書いた日:2023年1月
長義贔屓の伯仲オタクによる伯仲解釈、長義解釈、国広解釈です。妄想も多分に含まれていることは自覚しています。疑問視も込めて私の感じる別解釈ルートも併記しました。別解釈ルートの理論付けだったり他の落とし込み方もたくさん聞きたいよおおおおおお
英語版の情報についてと、国広極・長義初、国広極・長義極についても今後深めていけたらと思います。



本作長義

(本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住國廣銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也)

南北朝時代 備前長船長義によって打たれる
信濃国戸隠山の山姥を切る→号「山姥切」※刀剣界によるただの風聞説濃厚
1586 北条家⑤氏直(④氏政?)→長尾新五郎顕長
1590.5.3 堀川国広により磨上げ、銘打ち
1590.7 豊臣秀吉による小田原攻め 主家北条家とともに長尾家滅亡
1681 尾張徳川③綱誠が買い上げ、その後も徳川家に伝わる
現在 徳川美術館蔵

山姥切国広

(九州日向国住国広作天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長)

1590 長尾顕長が足利学校に訪れた堀川国広(日向国住)に山姥切長義の写しを作らせた
1590.7 豊臣秀吉による小田原攻め 主家北条家とともに長尾家滅亡
現在 個人蔵(足利市管理に変わるかも??)足利市管理になり保存事業「縷縷プロジェクト」がスタートしています

山姥切伝説

 ※典拠(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11131645#2

・1920年文献に初出 その時点で国広は“山姥切国広“
・杉原祥造氏の押紙により刀剣界に認知広がる・長義の伝説としては1962「堀川国広とその弟子6」に初出
  佐藤寒山氏による言及
・尾張家の蔵帳・黎明会名刀図録(1960.12)には山姥切伝説について一切の言及無し
・徳川美術館も山姥切の号は国広のものであることを断言(2019.5.3講演「山姥切≠本作長義~徳川美術館が守り、伝えるもの」)
・刀剣乱舞のブームにより正式な論文が発表された。2019年前後で一般認識に変化アリ。
→通説がキャラメイキング時点から現在で変化している




刀剣乱舞における二人


①    特命調査 聚楽第 其の17 「監査官と写し 聚楽第内部」

監査官「…………」
国広「……なんだというんだ」
監査官「……実力を示せ」
国広「……なに?」
監査官「がっかりさせるな」
国広「……言われなくとも」

がっかりさせるな、という一言は監査官であり正体を明かしていない長義が漏らした本音のように思う。二人のキーになっている(※詳しくは後述)「じっと見る」という行為を国広に対して繰り返した後の発言であり、特命調査の進行状況に関係なく発生するという点も裏付けになる。(=「実力」「がっかり」が国広の所属する本丸や調査の進行状況、国広の戦闘に関する技量に対するものである可能性を排除できる。)また、最終評定など審神者に対しては終始非常に事務的な口調であり、国広だけに見せた長義本来の柔らかさとも受け取れる。

審神者に対して特に高圧的な態度はとらない様から、国広や南泉を特別視していること、縁ある刀以外に対する態度高圧的ではないのではないかと考えられる。

一方の国広は自分の示すべき「実力」は戦闘の成果であり特命調査の成功と解している。ここから、相容れない二人の様子、嚙み合わない様子が推察される。


②    回想 其の56 「ふたつの山姥切」

長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売っているんだろう?」
国広「……そんなことは」
長義「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺がいなかったんだから」
国広「……それは」
長義「俺が居る以上、『山姥切』と名乗るべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ」

“『山姥切』の名で顔を売る”はシンプルに皮肉である。国広は顔を見せないようにしているわけだし、長義の実装以前から山姥切伝説に対して「自分のものではない」という振る舞いを見せているため、事実に沿わない。
長義の2つ目のセリフは「もっと自分の号、自分の価値に自信を持て」という長義なりの檄と取れる。

長義は、ここ(長義配属以前から国広がいる本丸)において「山姥切」と名乗るべきは自分であると主張しており、世間一般において「山姥切」と認識されるべきは自分であるという主張しているのではない。今まではいくら国広が卑屈な態度を取ろうと問題はなかったが、長義の配属以降もその態度を取り続けるのならば本当に逸話が長義のものになってしまうが構わないのか、と問いかけているのである。

つまり、最後の長義のセリフ=「俺がこの本丸に顕現した以上、お前が自分の価値を誇れないのであれば俺がお前の逸話ももらってしまうよ」


別解釈ルート

山姥切長義は、二振りが名に冠している山姥切伝説は自分のものであり国広は自分の写しであるのに、本丸において国広が「山姥切」と呼ばれ自分が二次的な存在として扱われることが気に食わない。一連の台詞は国広に対する宣戦布告であり、本丸においても世間の通説同様自分が一次的な存在として扱われることを望んでいる。


刀剣乱舞/山姥切長義について


”美しいが高慢。より正確に言えば自分に自信があり、他に臆することがない。”
→長義の本質。自信家・プライドの高さ・自分への厳しさ[cf)「采配のせいにしても、始まらない……」(本丸ボイス・負傷時)]。ただ、自信の根拠には写しが打たれたこともあるはず。

国広は長義の写しである
→当然自らの写したる存在には自分と同様に美しくあること・強くあることを求めただろう。

「持てるものこそ、与えなければ」
→自分は他者よりも多く“持てるもの”であるという自信。他者への深い愛。実際、国広や南泉といったゆかりのある刀以外への態度は比較的柔和なのではないか。

「偽物くん」
→神を宿さない国広、写しという存在に対する慈しみ(小田原時代とかいう集団幻覚)はいつしか失望に変わった。自らと瓜二つの容貌をしながら美しさに胸を張れない姿への怒りに由来する発言。

聚楽第からも見て取れるように長義は国広に“期待している”。美しい自分の期待に応えられない国広への怒り。「伯仲の出来の写し」などではなく、自分に釣り合わない「偽物」である。

長義「どうしたかな?そんなにまじまじと見て」(本丸ボイス)
国広「そんなにじろじろ見るな」(本丸ボイス)
→山姥切2人は他人に見られることを強く意識している。長義が国広に対して求めているのは自分同様、他者の視線に対して堂々とあること。


別解釈ルート

山姥切は俺、という発言と紐づけるならば「名を奪われたこと」への怒りに由来する発言と取れる。この根拠は「山姥切伝説は本来長義のものであり国広の号はそれに倣ってつけられた」という2019年以前の刀剣界一般の認識にある。


刀剣乱舞/山姥切国広について


オリジナルでないことがコンプレックス。
「泥にまみれていれば、山姥切と比較するやつもいなくなるだろ」
「……呪い?じろじろと顔を見たがるやつが多いからだ……」
→国広が他人の視線を避けるのは、見られることで自分と長義が比べられるからである。比較されて貶められることではなく、比較そのものを嫌がっている。(そのため、他者が国広の見た目を褒めることはコンプレックス解消には繋がらない。)

「だが、俺は偽物なんかじゃない。国広第一の傑作なんだ……!」
「俺は、俺だ」(誉ボイス)
→二振りの刀は優劣つけがたいということで伯仲の出来と評されているわけで、国広自身も自らの価値は自覚している。しかし、どうしても長義抜きにして国広のことは語れないがために、オリジナルの、誰の模倣でもない名刀ではないことを気にしている


「化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?」
「山姥退治なんて俺の仕事じゃない」
→自分が写しであるがゆえに、本来自分だけの逸話であるはずの山姥切伝説さえも本作長義のものと見做されてしまった。オリジナルではないことに卑屈になった根本はここにあり、伝説は全て長義のものであるという前提のもと語るようになった。(それはその方が楽だからという側面もあり、長義の顰蹙を買った結果、長義もそれならお前の逸話もろとも俺が背負ってやる、という態度に出た。実際長義は自己紹介ボイス以外で山姥切伝説に言及することはなく、伝説に固執する様子は見せない)


別解釈ルート

オリジナルでないコンプレックスを、山姥切長義に対する劣等感と読む。山姥切長義こそが山姥切伝説に登場する刀そのものであり、山姥切国広は自分のものではない伝説が自分の名についていることに居心地の悪さを感じ、拒絶している。自分の価値は、堀川国広第一の傑作であることに依存していると信じている。


お互いへの心情

長義→国広

国広は自分の写しなのだから、当然価値がある。自分同様に美しく強くあれ、失望させるな。


国広→長義

自分には長義の写しでなくとも(写しとしてではない)堀川国広第一の傑作であるという価値がある。特徴は捉えている一方、本作長義と山姥切国広の見た目の合致度は低く、国広自身の創意も山姥切国広の価値とされている。比較されたくない。

→二人の論点は嚙み合っていない。また、互いが互いに気持ちを素直に伝えるには、長義のプライドは高すぎたし国広の性格は卑屈すぎた。


極に対する予想

国広

→自分の存在は長義無しに語れないことを受け入れる。そのうえで、自分を見つめてきた他者の視線は長義と比較するものばかりではなく、国広だけが持つ魅力を見ていた視線もあったことに自覚的になる。

長義

→国広に対する柔らかさの表現がわかりやすくなり、山姥切伝説を介して敵対する二振りではなく本歌と写しとして振る舞うようになる。自分の価値は伝説一つでは揺るがないため、自信に変わりはない。


参考文献

徳川美術館発行 図版「徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具」、2018年
小和田泰経著「刀剣目録」、新紀元社、2015年
さよのすけ著「改訂版 山姥切考察本」、2020年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?