よば的思考 ~Active or Alive~

 よばです!私はShowroomをリスナーとして利用し、いろんなところで遊んでもらっています。今回の記事では、これまでの「Showroom」の記事とは少し違って、普段のよばさんの思考の1例をご紹介いたします。

1.知識や経験を「いかせて」いるか

 「知識や経験をいかして、これからがんばっていきたいと思います」
 これに似たようなコメントは、ありとあらゆる場面で耳にすることがあるのではないでしょうか。これまで培った知識や経験、これらを使って、これから利用していくという意味でしょう。さて、このときの「いかす」という言葉ですが、みなさんならどのような漢字を思い浮かべますか?

【活かす】

おそらく多くの人はこの「活」という漢字を使った「活かす」を思い浮かべるのではないでしょうか。でも実はこの用法、つまり「活」という漢字を使って「いかす」と読ませる用法は、常用漢字にはありません。あるのは、

【生かす】

という、「生」の漢字を使った「生かす」のみです。つまり、生命を維持する、命を与える、という意味です。みなさん、ご存じでしたか?

 この2つの「いかす」に使われている「活」と「生」は、英語にするなら「Active(活動状態な)」と「Alive(生きている)」くらい違う漢字です。確かに、「これまでの知識や経験を“いかして”」とするのであれば、活用するというニュアンスが強いでしょうから「活かして」の方が正しいように思えます。実際、「活」について、《常用漢字にその用法がないのであれば、この場合ひらがなで「いかして」と書くのが正しい。生命を意味する「生かして」を当てるのは誤り》と解説している方もいらっしゃいます。

 それも一理あります。でも、私は違う考え方です。これまで培った知識や経験を自分のものにして、それをきちんと使いこなしていくのであれば、それは単に「Active」な状態にしておくのでは不十分。特に、既に命を終えた過去の人や物からの何かを吸収し、自分のものにするのであれば、「Alive」な状態、つまり命を与えてそれらを「生かさなければ」いけないこれが本来の「いかす(=生かす)」なのではないかと。

 知識や経験がまさにそうですが、誰かに聞いたり、自分で調べたり、何度も練習したり、そうやって獲得した知識や経験というものは、巡り巡ればもとは誰かの命そのものです。誰かが、何かが、生きてきた(生きている)証だと思っています。直接的に関わりが無いように思えても、実際は、現代に生きる人たち・過去に生きた人たちが与えてくれた・残してくれた膨大な知識や経験の元に、我々は生活をしています。何かを「いかす」ということは、つまりそうした多くの人たちの命そのものを、我々の手で、脳で、身体で、「生かしていく」ことに他ならないと思っています。

2.運も実力のうちか?

 私は、「運も実力のうち」という言葉が苦手です。はっきりいって、それは違うと思います。「運」という自分ではどうにもならない要素を「実力」としてしまうのは、あらゆる分野において、その実力で戦うファイターに失礼だと思うからです。ただ、たしかに「実力はあるように思われても、運がなくて活躍できていない人」がいますし、「さほど実力が無いわりに、結果を残している人」がいるのも事実なんだと思います。私が思うのは、「運は実力といえるものではないけれど、運を生かせるかどうかは実力だ」ということです。 

 自分の周りにどの程度の「運」が、チャンスがやってくるかはわかりません。でも、ほんの少しでも芽を出してきた「運」をしっかりと見つけ、生かし、自分の物につなげていけるかどうかは、実力だと思います。あるスポーツをしていて、自分に有利な風が吹いていたとしましょう。でも、その風をうまく掴んで自分の思い通りの成果を出すためには、結局の所、実力がなくては不可能だと思います。試験勉強をして、ちょうど勉強をしたところが試験に出たとしましょう。でも、それだとしても勉強をしていなかったらその運にはたどり着けませんし、何よりたどり着いたとてその場で正しく解かねばならないはずです。

 自分にとってラッキーなこと、チャンスの数、を操作することはできないかもしれません。でも、それを生かせる数それ自体は、自分がそうした物に「命を与えられるかどうか」という実力です。「運を味方につける」ことができるかどうかは、自分自身に委ねられているのです。

3.生き路(いきろ)

 自分が何をどう「生かせるか」ということを考えると同時に、果たして自分は誰かの中で「生かされる」ことがあるのだろうか、と考えます。

 例えば自分が後輩に何かを教えたとして、それを後輩が「生かして」くれる。そうやって、自分自身の何かがどこか別の場所で生きているとするなら、本当に幸せなことだと思います。命を永らえること、生き続けるということは、本来その肉体を中心として(=心臓を動かして)成立することかも知れません。でも、仮に自分自身が命絶えることがあったとしても、そうして形を変えた「命」があったとするなら、それも広い意味で生きていることにならないか、と思うのです。生きるとはすなわち、この身体だけで考える必要もないのじゃないか、と。そう感じ始めたときに、「自らのこの身体を一生懸命動かして命をつなごうとすること」と、「誰かに何かを与えて、その人の中で自分が生かされようとすること」と、大して差なんてないんじゃないかと思ったのです。

 たとえば「自殺」というプロセスも、一見すれば生きる路(みち)を閉ざした形ですが、私からすればそれは強い生への執着心。私にとって少し身近な人が数年前に自殺しましたが、そこから受けた私の感覚としては、それは肉体としての命が尽きようとも他人にその印象が強く刻み込まれて残る、他人の中での生というものだと解釈しています。

 たとえば周りから見たら献身的、その一言で片付けられるようなことだったとしても、実際自分から見たら自分の生きる路を新たに創り上げているということ。別に自らを犠牲にしているわけでもなく、むしろ逆に自らを生かそうとしていること。そうだ、己を生かす方法は色々あるじゃないか。そっち側に意志を向けていくのも、そういう生き方も、良いんじゃないかなって思うのです。

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