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APPEARANCE -兼子裕代展-

誰のために歌うの?:展示について

 撮影する作家のカメラの前で歌を歌っている人々の写真が16枚ある。被写体の目線はカメラを見ていない。年齢、性別、人種が一定の分類される何かではなく、小さいお子さんから、男性、女性、職業(写真からわかる範囲で)たくさんの人がいる。まず、何の情報を得ないで、この写真を見ると、一瞬何をしているのか判断に迷うと思う。被写体はほぼ野外で一生懸命何かに集中してるのがわかるが、目の前のカメラや撮影者を気にする様子がない。そう、何かに集中している。ポートレートのようであるが、目線がこちらになく、ポートレートではないように見える。望遠レンズで遠くから撮ってる様子も画面からは見えない。(圧縮がない)そして、ステートメントを見て、やっと歌に集中しているのだと理解できる。

 彼ら、彼女らは目をつむっていて自分の世界に入っている。写真である故に、メロディが聞こえてこない。私は、前もって「被写体は歌っている人」と情報を得ていたが、実際にプリントを目の前にすると、やはり一瞬何をしているのかを戸惑ってしまった。曲名もキャプションにはなく、写真集(APPEARANCE :青幻舎)をじっくり見ることで、曲名が載っているのを理解する。しかし、題名だけでは、メロディが浮かんでこない。(日本人には馴染みのない曲が多い)彼らは全くこっち側(カメラとカメラをのぞいている作家とそしてその写真を見ている私)を全く意識してない。でも、それは拒絶でもない。ただ、「自然」に「何か」をしてる。それは歌を歌っている。透明な優しいバリアが被写体とこっちを包み込んでいる印象がある。外部の音を遮断しているかのようにみえる。でもメロディは聞こえてこない。そして、彼らは「いてもいいけど」という感じを受ける。

「でもあなたのためじゃない」

では誰のために彼らは歌っているのだろうか?

どうして歌うの?:作品の概要

 作家は兼子裕代さん。現在アメリカに在住。小林美香さんが書いた文章によると

「〜(略)カリフォルニア州オークランドを拠点に活動する写真家の兼子裕代(1963- )は、2010年から性別や年齢、人種の異なるさまざまな人たちをモデルに、彼らが路上や室内、公園や庭のような日常的な空間の中で歌う姿を間近に捉えたポートレートのシリーズ「Appearance」の制作に取り組み、2020年に一連の作品を同名の写真集 にまとめました。(SEIN: Way of Seeing 2020.6.20 小林美香)

「歌う姿を間近にとらえたポートレート」であるということがわかる。

 また、写真集(上記掲載)の兼子さんの文章によると最初は、「歌う子供」に興味を持ち、最初は「歌っている子供」から撮影をスタートしているとあった。そして、

「歌いながら人は感情を表現する。メロディは「過去」や「未来」への想いを喚起し、リズムは身体を刺激し、様々な表情と身振りが被写体の上に現れ消えていく。写真は感情という目に見えないものを写すことはできないが、常に変化する表情の一瞬を捉える。その特質を利用して、被写体の顔に不意に現れる、感情の発露の主観を捉えたいと思った。(写真集 APPEARANCE :青幻舎からステートメント)」

「感情の発露」を写真で捕らえるということ。そして、小林美香さんの記事によると筆者との対話の中で「無防備さ」についても語られている

「(モデルが)無防備に感情をさらけ出しているのを私に見せてくれることが強いなと、(略)『無防備さ』はどちらかというと『弱さ』に近いですが、さらけだして『オープンになっている』ていう裏腹な『強さ』があるんです」(SEIN: Way of Seeing 2020.6.20 小林美香)

 私は、最初「人間の素」について写真という手法を使い、映像とは違う一瞬の象徴的なイメージを切り出すことによって、社会へ対しての「人間の本質とは何か」を問うための作品なのかなと考えていました。

 また、この作品のことは大阪のThrid Gallery Ayaで展示をしていることは知っていました。ただ、それに対してあまり興味を持っていませんでした。

 確かに、人間の「素」という物はなかなか表に出てこない。親しい友人であろうが、家族であろうが、その人の持っている「本質」を垣間みるという事はなかなか難しいし、余程何かの機会でないと出てこない。その上、それを写真に撮るという事は、かなり難しいし、そもそもカメラと写真というものの前で人は本音をさらけ出すことはなかなか難しい。だから、カメラの前で歌を歌ってもらうというのは、そのレアなパターンであり、それに気がついた兼子氏の発想の鋭さというのはすごいと思っていたが、あえて写真集を購入してみたいと思うとか、プリントを大阪まで見にいこうとはなかなか思えなかった。ではなぜ今回店展示を見にこうと思ったのか?このコロナ禍の中で。あえて。そしてこの写真集を購入したいと思ったのか。

考え直してみた。それは今見ないといけない。そして今の世界にこの作品が必要であると思えたから。

「今」を象徴する作品として:社会に接続する作品

 なぜこの作品が世界に必要なのか?と考えてみた。答えはこの作品は今の現状によって違う意味を持ち始めているということだと思う。

 2020年の1月から私達の社会は、ものすごいスピードで変わってしまった。新型コロナウィルスによって日本だけでなく世界中がである。杉本博司さんの有名な展示での文章である
「今日世界は死んだ もしかしたら昨日かもしれない」
から始まる文章のように、この前までの世界と今、私たちが過ごすこの世界は全く違ってしまった。人々は家から出られず、集まれず、一緒に店で食事もできずに、人が集まるコンサートもどんどん中止になり、イベントもなくなってしまった。みんながマスクを買い求め、外に出る時はマスクをしていないとマナー違反だと言われるようになってしまった。カラオケボックスも感染症拡大の防止のために休業になり(今は対策をしてできるようになっていますが)そう、人前で歌なんか歌えない。歌どころか、近くでマスクなしで話なんかできない状態なのである。

 いづれ、今もう現在でも、表現をする人々はこの「異常事態」を写真に記録しているであろう。マスクをしている写真や、街中でソーシャルスタンディングをとっている写真。そう、「記録」としての「作品」の写真は、今後世界中の作家たちが作品としてまとめ上げて発表していくに違いない。(すでに発表している作家もいると思います)

 しかし、私はこの兼子裕代さんの「APPEARANCE 」という作品がとても「今」の時代に対して、この今のコロナ 禍の状態とは、全く違うところから作成され発表されたにもかかわらず、私は、この作品がとても「時代を象徴してる」ように感じました。ちょっと身震いがしたほどです。(鳥肌が立った)

 何故かというと、今回の展示の予定(この時期の!)はもちろん、半年〜1年前くらい前にこの時期に決まってます。その頃はきっと、この感染症のことは考えてなかったともいます。また、この作品は兼子さんもおしゃっていたとおり、「被写体の顔に不意に現れる、感情の発露の主観」を捉えることをメインとしていた作品であったはずです。そこから人種については性別についての人間について 見ている人に社会に対する疑問を投げかける作品であったと思います。それは今ももちろん変わっていはいません。

 しかし、私はこのこの作品は「今」発表される(展示される)ことにより、「違う意味」もまた大きく持っていくの作品なのだなと考えました。 現在、人前で飛沫を撒き散らしながら歌うという行為ができないこの異常状態で、(例え撮影のカメラマンの前であろうとも今は感染予防がないとできないと思います)写真の被写体たちは、自分の中に集中して、歌っているわけです。

それはあまりにもシュールです。
それは「今」を表している(=今の状態を見ている人に考えさせる)と  私は思えるのです。

 そしてそれは作品としての別の意味も出てくるのだと考えます。この作品を見た人たちは、「あの」コロナ禍という異常事態があったという事を、この作品を見る時にきっと考えると思います。それは時代を象徴している作品として大きな意味も持つという事だと思います。また、本来の作品の持つ意味に合わせてより一層の付加価値を作品が持つことであると考えます。

 この作品は、東洋の国立近代美術館で美術館収蔵も決まった模様で、学芸員の増田さんとのインタビューもあり(下記)

自分のために歌を歌おう

<展示情報>
2020年7月18日〜8月29日 休廊:日曜〜火曜
会場:POETIC SCAPE
住所:東京都目黒区中目黒4-4-10 1F
土・祝日は事前予約が必要(新型コロナウイルス感染拡大防止のため)*プリントは16枚 サイズが3種類。
額装ありと額装なしの壁に直貼り付けがプリントの大きさによって変わる。
*基本的に全て同じ「つや消し白塗装の木製Boxフレーム」
*額装にはマットなし

*前回の展示(今回は巡回展)
APPEARANCE 兼子裕代 2020年1月25日(土)〜2月22日(土)   The Third Gallery Aya にて開催

48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。