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写真の自傷行為について

写真新世紀2020で応募した作品につけたステートメントになります(もちろん入選しませんでしたが)

インスタント写真をついて

 私は2005年に一人息子を失くしてから、47歳で写真と出会いました。「写真を手段」として、対峙できない「息子の喪失」についてやっと向かい合う事ができ、作品を作り、その事によりそれを昇華し、自分から解放できたように思えました。(2017年発表)しかし、あれからもずっと理解できない「何か」を自分の中に溜めながら日々を実は過ごしてきました。私はもっと自らの中に深く入り込み、自分自身の「喪失」について違うアプローチから「可視化」していく事が必要であるとずっと考えていました 今回の作品(写真新世紀応募作品)はinstax film という「インスタント写真」に、過去の家族写真をプリントしてあります。この機材を使用しようと思った理由は、いくつかあります。一つ目は、複製芸術である「写真」の中でも、通常は1枚しかプリントができない、このインスタント写真は、過去のもう変える事ができない「思い出」という唯一性ととても相性がいいのではないかと思えました。また、二つ目は、これから増えることがない「息子の遺品」という唯一性も、撮影する事でそのイメージを写真の中に閉じ込める事について、とても適しているように思えたのです。

顔を潰された写真

 しかし、これらの家族写真の顔は全て潰されてあります。通常、過去の思い出の写真に何か細工(破ったり、マジックで潰したり、ピンを刺したり、燃やしたり等)することは、その記憶を消しさりたいという行為の象徴です。写真というものは、(プリントをすることによって)「過去の思い出」という形のないものを物体化させ、そして頭の中の記憶を破って捨てる事ができない代わりに、それを行う事ができます。では私は何故過去の「楽しい息子との思い出」を潰そうとしているのか?私は、幸せな過去を消してしまいたいと思っているのか? 自分に問いかけてみました。答えはすぐに出てきました。
「それは違う」

 では何故なのか?

記憶の中でモンスターになっていく息子

 息子の突然の死により、未来の楽しい家族写真がもう撮れないという 「悔しさと怒り」であると同時に、過去の楽しい思い出が、不本意に  「愛しいもの」から「最も思い出したくない、考えたくない思い出」へと、全く違ったものに変化している事に気がつきました。それをこれらの写真で表現したいと思いました。もしかしたらこの感覚は、同じ経験をしてない方には、理解というか共感はできにくいかもしれません。私の息子は何一つ変わっていないのに、彼は私にとって、記憶の中でモンスターになっていく。そんな認めたくない恐怖があるのです。

「気持ち悪くて怖い」これらの写真はその記憶そのものであります。

写真の自傷行為について 

 写真自体を傷つける(=写真の自傷行為)事は、自分の体を傷をつける自傷行為と同じ意味があるのではないかと考えました。(自傷行為の例としてはリストカット等があります。)これは、私にとって二つの意味があると考えを整理しました。一つ目は、「耐えがたい心の痛みを体の痛みで蓋をする」という事でした。

「(略)〜心の痛みを感じたときに、自傷の行為という形で、自分の体に、体の痛みを加えると、それによって、なぜか心の痛みが緩和される、和らげている現象です。(略)」(注1)

私はそれを体の痛みでない別の方法でおこなったのです。今回の写真で、 顔を潰している行為をしている時は「吐き気を起こさせるほどの嫌な気持ち」を抱きました。そして、彼の父親である夫には、どうしてもこの写真を見せる事ができませんでした。では、何故そんな事をしているのか?   何の意味があるのかというと、私は同じように、よりひどい「心の痛み」もつ事で、この耐えられない事実に対峙する事ができると考えたからです。

 二つ目は、同じようでありながら、少し違う意味もあるのがわかりました。それは、「痛みによって自分の過去を取り戻したい」という事でした。

「(略)〜身体を持つという実感をどのようにして得るのか。自我はそれを苦痛によっておこなう。(略)」(注2)

これは 一般的に、アメリカでLeather(レザー)と呼ばれる性についての人々の特徴を解説している文章の中のあるセンテンスでした。また、類似のものとして「幻肢痛」(=切断された腕や身体の一部に痛みを覚える症状)も例としてあげられていました。

私は

「自我と身体が完全に切断されていること」「痛みによってしか自分の身体をを実感できない(=幻肢痛は存在しない肢体が痛むという逆のベクトルですが、結局の意味は同じだと思います)」

 という部分が、とても自分にとって理解できました。

 まさしく今の状態を表しているのではないかと思ったのです。

 2005年に息子が急逝してから、もう15年が経ちました。私はもう毎日泣きながら家に閉じこもり過ごしていた時期から、社会へ出て働き、普通に過ごせるようになりました。しかし、悲しみが癒えた、乗り越えたというものではなく、ただ、自分の感情を自分自身で押さえ込む事ができるようになっただけだと思います。これは麻痺に似ている感覚があります。過去のことは何も考えずに、ただ目の前の現実に対応しているだけです。それはまるで、過去は自分の身体から切断した自分の腕や脚のようでした。「存在していない」という感覚です。自我と身体が完全に切断されたような気持ちがずっとあり、私は別の人の身体を動かしているような気さえしていました。(まるでアンドロイドをリモートで動かしているかのように!)切断された肢体を自分の身体として認識するために、私は幸せな家族写真(過去の記憶)に対して、それを激しく傷つけることで、その「ひどい痛み」により、麻痺した過去の記憶(切断された自分自身の肢体)を取り戻しているのだと思います。
 そう、私には息子がいたはず。

画像1

 写真の下にコラージュしてあるのは「4歳児が読んでいた絵本のページ」です。息子が生きていたという現実のメタファーとして、インスタント写真の下にコラージュとして貼り付けてあります。インスタント写真をその上に配置することにより、目に見えない過去の記憶と彼が読んでいたその絵本の時間が可視化され物質化されることにより、みている人への強いメッセージとして成り立つのではないかと考えました。

 この写真は1枚しかないし、この絵本のページも1枚しかない。

 それをどうしても表現したいと思いました。

 最後にこの作品のタイトルである「誰の目にも隠されていないが、誰の目にも触れない」という意味は、これは私のストーリーであり、私の人生に対して重大な事件でありながら、

「(略)〜そこに最初から存在し、そして失われることもなく、だが誰の目にも触れないもの (略)」(注3)

 であると感じたからでした。このまま私が黙っていれば、このストーリーは誰も知らない話で終わり、誰も知らない作品として埋もれていく予定でした。しかし、私があえてこの作品を社会へ向けて発表するのは、同じような境遇の方々(限られてはいますが)へ向けてであり、現在闇の中にいる方々への何かの手助けになればと考えています。また、そうでなくても、人の生死は全ての人に関係する事でもあります。何かをここから得て欲しいと願ってます。写真にはその力があると信じてます。

<参考文献>
(注1)松本俊彦、自傷と背景のプロセス、心理教育相談室年報 2010年第5号 4−18P
(注2)清水穣、永遠に女性的なる現代美術、初版、淡交社、2002年 47P
(注3)岸政彦、断片的なものの社会学、初版第十一刷、朝日出版社、35P
(*このタイトル「誰の目にも隠されていないが、誰の目にも触れない」はこの本のタイトルであり、作品のタイトルに使用許可は筆者に連絡して承認済みです。)

48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。