見出し画像

死んじゃった子はもうしょうがないのか?

心のもやもやを冷静に考えてみて、自分の心の闇に気がつく。致し方ない。

ある母親の話

 あの子は2005年に亡くなっているので、もう14年前の話である。その母親という人は写真というものにあって、息子の遺品を撮影して作品にまとめ、個展を東京と関西でおこない、「悲しい記憶と対峙し、それを昇華させて、写真をいうメディウムを使いかわいそうな悲劇の母親の再生の物語」という事で、何か成し遂げたらしく話が終了してる。2年前の話。成し遂げたのか?いやわからない。自分のセルフプロデュースが上手いだけで、本当は何も成し遂げていないのかもしれない。成し遂げるとかできる人間じゃない。ただ、「悲しみのドラゴン」を飼いならし、普通に生きていけるようになって、普通のおばさんになったんだと思う。ただ、人の子どもに対しても、「羨ましい」とか「生きてていいな」とか「どうしてうちの子だけがこんな目に」とかいう恨みツラミは言わなくなっただけだと思う。14年かかりましたがね。実際に、人の子供は可愛いし、流産を繰り返していた当時ほど、赤ちゃんを見ても、悔しさとか怒りとか、下手すると「憎しみ」を持ったあの頃に、比べたら、何もでてこない。負の感情は。赤ちゃんは可愛い。子供も可愛い。自分の子でなくても。電車で大声で泣いている赤ちゃんを見て、うるさがってるおっさんがいたら、後ろから蹴りあげる準備はできてる。そのくらい。子供は可愛い。

誰かが悪いわけではない

 ただ、この何日か?もやもやしてた。別に気分が悪いわけでもないし、体調が悪いとか、仕事が忙しいとか、ただ暑いとか、寒いとかだろうな。とずっと思ってた。8月があの子の命日なので、まあ時期的に仕方ないな。とか考えてた。でも、14年も経つと、だいぶ穏やかにいるんだなとか思ってた。気持ちが何か不安定なのは、それでだけで、ただそうなんだなって。

でも、ふと今日、このもやもやを冷静に分析していて、自分である事に気がついた。

他人の子供に一切関心がない

 関心がない。というか「考えないようにしてる」というのが正解なのかもしれない。考えようとすると、頭の中のブレーカーが落ちる。思考停止になる。CPUが古いみたいだ。ばくってる気がする。フリーズする。子供を失った母親は菩薩にように、全ての子供に愛を捧げる方が多いと思う。そんな方をたくさん知ってる。「あの子のような犠牲は二度と出してほしくない」と社会を変えていく運動をしている両親がたくさんいる。素晴らしい。また、それをやる事で、自分の「悲しみ」に対しての癒しになっている人も多いと思う。間違えてはいけないよ、私はその人たちの姿勢とか考えを否定するとか言ってるんじゃない。そこは声を大にして言いたい。

 何がきっかけで今日そう思ったのかは言わない。関係ないのから。

ただ、今日、自分の心の中に入って行って、大広間に何もない大広間にクチャクチャに丸められたメモに書いてあった。拾い上げて広げてみたらこう書いてあった。

「死んじゃった子はもう関係ないのか」

思い出した闇

 あの子は保育園で母親も父親も保育士も見てない隙間で、あっという間に亡くなってしまった。原因はわからない。今でもわからない。これ以上は言わない。だから、「真相を見つけるために」悲しいとか言ってる場合でなく、どこにも活飛んで行って、どんな人にもあって、悲しみをぶつける、怒りをぶつけるだけだと、相手が話をしてくれないから、冷静にコンクリートで、感情を固めて、頭のブレーカーを全部落として、「目的のために」やってた時期があった。その時にあるクラスの保護者とあったと思う。あの子と同じクラスの。担当保育士はあの子が亡くなった事で園にいられずに、退職をしたと言ってた。そして、事故後の母親に向かって、涙ながらにこう言ってた。

「急に担当保育士さんがいなくなって、私の子供は不安定になっているんです。かわいそうで、かわいそうで、なんとかしてください!あなたのせいです」

 この目の前の母親を見て初めて「人を殺したいと思うのは、なるほど、こういう気持ちなんだな 死ねばいいのに」と冷静に思って見てた。口に出さなかったし、泣きもしなかったし、実際に包丁を持ってきて刺しもしなかったけど。

あああそうか、これか。これか。これはトラウマになるなあ。

だから、もう他人の子供への援助とか支援とかできないんだろうな。って。

今日改めて、自分の闇をみたというかなんていうか。。

そんだけ。


48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。