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”一歩踏み出す勇気を与える”    -----藤中優の生き様note-----

皆さん初めまして、藤中優です!!
僕は、デジタル広告の代理店に九ヶ月勤めている人間です。

この記事では、僕の過去24年間の生き様をお伝えします。
ずばり!この24年間を一言で表すなら、

試行錯誤

ですね!
自分なりに考えて行動してきたけど、思い描いたように上手くはいかなかった。でも、前を向いて一歩踏み出すことだけはやめなかった。自分の直観に従って決断し、行動する回数を増やしてきた。これだけは言えるかなと!

一歩踏み出す勇気を与える

この記事、もちろん色んな方々に読んでいただきたいのですが、
特にキャリアで苦戦している20代、そしてとにかく一歩前進しようとしている方々に読んでいただけますと、共感する点が多いと思います!!

多くの人の夢中を作る

これが僕個人のMissionである。これを果たし続けた先に待つGOALが、

未来の可能性にワクワクするチームを作る

読んでいるだけで、心の底から興奮するGOALを設定することができた。このGOALから分かるように、生涯を通じて組織作り屋さんとして生きていくことが僕にとっての成功である。



小学生

①負けるのが怖かった~足が震えた習い事~

自分の身は、自分で守れる人間になりなさい。
今でもこの言葉を凄く覚えている。
両親の勧めで、僕が柔道を習うきっかけになった言葉だ。
緊張の中、初めて出場した試合の初戦で、開始五秒で女の子に負けた、、。気づいたら天井を見ていたことを今でも鮮明に覚えている。悔しかった。
女の子に負けるなんてありえない、、結果を受け入れることができない。
でも、畳の脇で僕以上に父親が悔しがっていた、、、。
そして、父親も柔道を始めた。

父親が柔道の先生になってから、帰宅後に毎日スパルタ練習が始まった。団地の決められたルート(2.5㎞ or 5km)を走り、道着を着て打ち込みを100本した後、坂道ダッシュを10本して兎跳びの姿勢で歩いて家まで帰宅。帰宅後に、腕立てと腹筋を100回ずつ行う。最後に、大人用と子供用のSAVASのプロテインを牛乳で溶いて飲む。正直きつかった、、泣きながら何とか歯を食いしばって耐えた。しかし6歳の時、きつい練習のおかげか県の体重別選手権で優勝した。帯の色が変わって嬉しかった。でも、それで天狗状態になってしまい、ある練習の帰りに父親にため池のほとりで何度も投げられた。これ以降、父親の目を常に気にしてしまい、ずっと監視されていることへの恐怖からか負けが続いた。この頃の影響なのか、今でも人の表情を伺いながら発言する時がある
ある日、転機が訪れた。
僕が小学4年生になった頃に父親が、

「もう俺は練習を強制することをやめる、自分がやりたければやりなさい。」

この発言以降から父親は負けても怒らなくなった。
そしてここから、負けたら悔しくて自分自身で勝ちたいと思い、自主的に練習に取り組んだ。小学校5年生の市大会での準優勝は、素直に心から喜べた勝利だった。
自分で行動を選択する”ことの重要性を学んだ。

②夢が決まった~あるドラマとの出会い~

この頃にとてもハマったドラマが「医龍」だった。今でもずっと好きで、定期的に見返すぐらいである。
このドラマの影響に加え、両親を喜ばせたいという動機もあり、
僕の将来の夢は、医者になった。
(しかし今考えてみれば、このドラマは主人公が目的達成のために”チーム作り”をするという内容なので、子供の頃に抱いていた本当の将来の夢は”チーム作り”であることが最近わかった。)

中学生

①孤高になりたい~母親の仇を討つ~

中学生になった僕は、非常に尖っていて調子に乗っていた。とにかく人にいたずらしたり、無茶ぶりをしたりするのが大好きだった。柔道をやっていたため、”自分は強い”とどこか過信をしていた。同じクラスのメンバーにやりたい放題していたら、気づけば孤立していた。いつものように挨拶をしても皆から無視された。孤立していることに気づいた担任の先生が、こっそり僕の母親にそのことを伝えていた。
ある日、家に帰ったら台所にいた母親が

「今までつらかったやろ、気づいてあげられなくてごめんね。」

と泣きながら抱きしめてきた。その時僕は、母親にこんな思いをさせてしまったことに猛烈に腹が立った俺を仲間外れにしやがって、、、。
母親を悲しませたことへの怒りで、クラスのメンバー全員を下に見て優越感に浸りたいという思いが強くなり、休み時間も勉強をした。結果、この出来事の直後に開催された実力テストで計485点を獲得し、学年順位は10番台から5番に浮上した。大切な人を悲しませないようにと圧倒的に頑張れる人間なのだと子供ながらに感じていた。

②みんなで近畿行こうな~叶わなかった目標~

部活動は、皆が未経験からのスタートであるという理由からハンドボール部に所属した。とにかく上手くなりたくて、帰宅後も団地内にあるグラウンドでシュート練習に取り組んだ。その成果なのか、一年生から練習試合にも出させていただき、二年生ではベンチに入ることは当たり前で、先輩を差し置いて公式試合に出ることも度々あった。
中学三年になり、投票によって僕はキャプテンに任命された。素直に嬉しかったし、ワクワクしていた。キャプテンをやるからには、”近畿大会に行けるチームを作りたい”と強く思っていた。近畿大会出場への思いが非常に強かった理由は、二世代及び一世代上の先輩方が行けなかったからでもある。

チーム目標:「近畿大会への出場

目標が決まった。
そしてちょうど三年になったタイミングで、私立中学を退学になった元バスケ部の子が転校してきて、しかもハンドボール部へ入部してきた。身長180cmでドリブルも上手く、この人は即戦力になると確信した。これを機に、転校生と仲の良かった運動神経が良いのに部活に所属していないヤンキーに声をかけ、二人に入部してもらった。可能性を秘めている人間が次々に入部を決めてくれたこの時期に、僕は凄くワクワクしていたことを覚えている。しかし入部してくれたこの転校生は、ワガママで暴力的な絵に書いたような暴君だった。練習中に話し合いで怒りを鎮めることができず、殴られることもあった。エースという肩書きにこだわり、ポジション争いによる喧嘩の止めに入ることもあった。思い通りにチームを纏められない悔しさに、僕は悔しくてよく涙を流していた。本当にめちゃくちゃな人間だったけど、でもチームにとって良い影響を与えてくれる面もあったので、練習のある休日の朝には毎回家まで彼を起こしに行った
引退試合が終わる最後までチームを纏められず、近畿大会に連れていくことができなかったことに未だに悔しさが残っている。

高校生

①燃焼感を求めて~筋トレルームでの出会い~

受験に合格し、家から13km離れた最も近くの公立高校に入学した。雪が車道に積もる日以外は毎日自転車で通うことになるのだが、部活終わりに友達四人で帰ることを毎日楽しみにしていた。
部活は、中学校でも取り組んでいたハンドボール部に入部した。同級生には僕と同じような経験者が多かった。だから、最初から「このチームならとても強くなる」と確信していた。しかし初日の練習に参加した時、顧問の先生から指示された練習メニューは、外周10周とキャッチボールをすることだった。絶望した、、というのも顧問の先生は学生時代にずっと陸上競技をしてきており、ハンドボールは未経験であった。外周10周は納得出来たものの、投げ方を矯正する目的でのキャッチボールという練習メニューには頭を抱えた。しかも、このメニューを最低三カ月間は継続して行うと伝えられた。一カ月は何とか継続してみたが、ハンドボールの技術面での成長が全く感じられず、燃焼感が無かった。また、チーム全体目標として「近畿大会出場」を掲げていたにも関わらず、練習でのチームの一体感や目標達成に対する熱量の低さを猛烈に感じ、部活動へのやる気を失ってしまった。

何も周りが見えないぐらい猛烈に夢中になれるものが欲しい、、、

渇望していた。
ある日の休み時間に学校を探索していたら、出会ってしまった。錆びついて汗の匂いが少し残る倉庫の中は、ジムだった。通称”筋トレルーム”。
見つけた、と思った(笑)この日以降、放課後は毎日”筋トレルーム”に入り浸った。前日の夜にメニューを決めて、次の日の放課後にメニューを実行。筋肉痛が懐かしくて、日々変化する自分の体にワクワクしていたとにかく筋トレにハマった(笑)
実はこの”筋トレルーム”は、よくアメフト部が利用していた。
高校一年の秋頃、同じ中学校の先輩と偶然”筋トレルーム”で遭遇した。
見違えるほど体つきが変わっていて、衝撃的だった。中学校でバスケ部だったこの先輩は、高校でアメフト部に入部していた。そして僕に、

「いっつもここおるやん(笑)そんな筋トレ好きならアメフト部入れよ」

「え、、。」
少し心が動いた。アメフト部なら日々燃焼感を感じられるのではないか、と。実は”筋トレルーム”で筋トレをしていた時、窓からアメフト部の練習を眺めていた。全員で声を掛けあいながらチーム一体となって汗を流す姿に、(めっちゃかっこいいな、しかも楽しそうやな)と思っていた心の底から羨ましかった
同時期に、”筋トレルーム”でもう一人の人間と出会った。それが後に筋トレでのライバルとなる山西(現陸上自衛隊所属)だった。いつも歯を磨くように鏡の前で腕立てをし、静かに”筋トレルーム”を出ていく。彼が同級生であるということを知った時に、すぐ決断した。アメフト部に入部をする。
これ以降、入部して後悔したことは一度もないくらい最高に熱量の高いチームだった。練習終わりのグランド整備を最高学年である三年生が率先して行っていた姿が今でも印象的である。ただ、試合ではどうしても立命館守山及び長浜という県の二強に勝つことはできなかった。最後まで勝てなかった。
アメフト部に入部してからも、もちろん筋トレには精力的に取り組んだ。筋トレを始めた日から大きく体が変わった。一日五食の飯トレで、60kg後半だった体重は79kgにまで増えた。早朝からおにぎりを食べ、夜は納豆ご飯で終わる毎日だった。先輩や同期からのアドバイス通りにとにかく食べる回数を増やしたが、思い通りに体重が増えずに苦しんだ。
高校時代の筋トレの成果は下記の通りだ。
【筋トレの成果】
ベンチプレス:60kg → 110kg
スクワット:70kg → 100kg
デッドリフト:90kg → 120㎏

②決意表明~周囲からの期待~

通っていた高校では、文化祭と体育祭が四日間通して行われる”棠楓祭”が最も盛り上がる行事であり、特にこの”棠楓祭”の団長は全校生徒の憧れの的であった。僕も二年間、団長をされた先輩方を見て(かっこいい、自分もなりたい)と憧れていた
第一回目の団長立候補者確認の会。憧れを抱いていたにも関わらず、周囲の反応を伺ってしまい、素直に手を上げることができなかった。(めっちゃやりたそうやったし、あいつに譲るか)と気持ちを抑えつけ、譲ったことにして自分を何とか正当化していた。しかしその日の放課後、部活動で同じクラスのマネージャーが「優くん団長すればいいのに、。」と声をかけてくれた。この後に続いて、周囲のメンバーも同じように声をかけてくれた。その時にやっと団長をする決意ができ自分の気持ちに素直になれた気がした
団長の決定投票会の日。担任の先生の「立候補者は手を上げてください。」という声と共に僕は手を上げていた。そして投票結果の末、団長に選ばれた。
一つの団は、三学年で構成されている。僕はこの機会に、男女年齢分け隔てなく出来るだけ多くの人と関わろうと思い、積極的に下学年の教室に行って困り事や悩み事などを聞き、雑談を繰り返し行った。また、ダンスも自宅で練習していち早く習得し、困っている同期や後輩に教えた
しかし、結果は最下位。学園祭終わりの全校生徒の前でのスピーチでは、「結果は最下位やけど、俺の中では1位や!!」なんて格好つけていたけど、クラスメイトの前では悔しさで胸がいっぱいになり、教壇で号泣してしまった。そしてクラスメイト一人一人と握手を交わし、一言「ありがとう。」と感謝の気持ちを伝えて回った。


大学生

①理想とのギャップ~予想外の大学生活~

受験を経て、無事大学に進学した。近畿大学薬学部創薬科学科。
小学生の時に抱いた”医者”という夢を軸に、進路選択を行ってきた。高校でのあだ名は”脳筋”だったので、もちろん勉強は全くできなかった。ベネッセ主催の模試で270人中268位を獲得し、E判定だった高校三年の夏から猛烈に勉強し、何とか高得点方式で滑り込んだ。高校時代に、担任の先生も塾の先生も同じことを言っていた、

「大学は、最高に楽しい場所だよ。」

嘘をつくな、、、毎日五限まで授業があった。カリキュラム上午前中しか授業が入っていなくて喜んでいたら、午後からは実験があった。バイトも遊ぶこともできず、自由が制限されていた。テストの教科数は10教科以上。高校生の時、薬学部がこんな場所だと思っていなかった。

「もう無理や、、こんなに勉強したくない。」

大学一年生の上半期は、猛烈に遊んだ。大阪や兵庫にずっと住んでいる友達に色んな場所に連れて行ってもらった。特に、クラブにハマった。ほとんど毎日のように、車で難波に繰り出した。最初女性に断られたり、嫌われる自分を想像し、怖くて一言も話せなかったが、回数を重ねるごとに恐怖心も無くなって気づけば人に声をかけることに夢中になっていた初対面の人との障壁が徐々に無くなり、打ち解けあえることに快感を覚えていた。そして、路上ナンパにもハマった。男女問わず、目の前の対話相手が笑って喜んでくれることが、何よりも嬉しかった、、、
時すでに遅し、上半期のGPAは0.9。
アドバイザーの先生から告げられた、「藤中、来年は留年やな。」

②金持ちになりたい~意識高いだけ人間の末路~

大学一年生の下半期から気持ちを入れ替え、毎日図書館に行って復習をした。これを大学二年の下半期まで続け、何とかGPAは2.0まで上げることができた。
大学二年の下半期の途中で、四歳上の彼女ができた。諦めきれず五回告白してようやく付き合うことができた女性だった。四歳年上ということもあり、付き合って二カ月目で結婚の話をすることもあった。また、毎回頼まれるプレゼントはブランドものが多かった。結婚式は海外、トリバーチが大好き、、、。金銭的余裕が無くなったもっと金が欲しい、ビジネスをして金持ちになりたい。実際に、若くしてお金を稼いでそうな人にTwitterやInstagramでDMを大量に送信した
まず、Twitterで一人返信がきた。同じ大学ということもあり、校内にあるブロッサムカフェという場所に説明を聞きに行った。”アフェリエイト”でお金を稼いでる人だった。僕は、文章を書くことが苦手だと思い込んでいたので断った。その時はできるだけ早くお金を稼ぎたいという気持ちもあった。
二人目は、Instagramからの返信だった。この人はAmazonで”無在庫転売”というビジネスをしているという。聞いたことが無かったので、好奇心がくすぐられた。ぜひお話を聞きたいと返信し、予定の日に指定されたグランフロント大阪北館のカフェに向かった。聞くと、Amazonへの出店登録などで30万円の初期投資がいると言われた。30万円は手元に無かったので、

今から消費者金融に借りに行きます。」

と伝え、その人と一緒にアコムに行ったが住民票を移していなかったこともあり審査に落ちた。そこで、学生ローンまで留学費用という名目で借りに行った。30万円の入った封筒を持った時、体が震えた。グランフロント大阪まで初期費用を渡しに行く時、電車の中で怖くて震えが止まらなかった。そして、到着して気づけば渡していた。しかし夜眠ることもできなかったので、数日後に再び30万円の入った封筒を取りに行き、学生ローンに返却した。
一度初期投資30万円で恐怖したにも関わらず、人に会いに行くことはやめなかった今度はInstagramで、自らDMを送信した。高級車や高価な時計の写真を載せている人に一言、

僕は、ランボルギーニに乗れるぐらいお金持ちになりたいです。お話させてください!!

指定された福島(大阪)の堂島にあるビルへ向かった。
そこには、伊勢丹の袋のような柄のスーツをビシッと着こなしているイケメンが立っていた。Instagramで見た人だった。用意された席に座り、携帯を眺めていると、並んだ椅子の間をスーツを着こなしたイケメンが颯爽と歩き、皆が一斉に拍手をした。拍手がやむとともに、ホワイトボードでイケメンの説明が始まった。不労所得を獲得するためのロードマップの説明だった。説明が終了した後、初参加の人間のみ集められ、地下駐車場に連れていかれた。そこには、Instagramで見た白いフェラーリが目の前に止まっていた。そして助手席に乗せてもらった。興奮した、ワクワクが止まらなかった。気持ちが高揚しすぎて冷静な判断ができず、説明されるがままクレジットカードを登録していた。次の日、学校で周りの友達を勧誘しようと話を切り出すと、皆が爆笑していた。

「優、それ多分マルチ商法やで。」

その時、初めてマルチ商法という言葉を知った。他の人に声をかけ続けるが、誰も契約してくれず、恐怖で寝れなくなった。契約解除しようと電話をかけ、何とかクーリングオフで12万円返却してもらったが、18万円は借金として残った。両親に土下座をして18万円を借り、バイトで少しずつ返却をしていった。思考停止して行動だけを繰り返す怖さを学んだ。
ただこの時、実際に人に会って話を聞いてみることの重要性は体感できた
気がした。

③暗黒期~思い通りにいかなかった研究活動~

一度落ち着いて、学校の活動に真剣に向き合おう。
そう決意した時、ちょうど所属研究室の選択時期だった。どこの研究室にするか悩んでいた時、一番仲の良い友達が一緒の研究室に行こうと誘ってくれた。と同時に、もう一人仲の良い友達が誘ってくれた。前者の友達は、仲良い人と研究活動をさぼりたいという理由で、後者の友達は、二年の研究活動に真剣に取り組める環境があるからという理由で誘ってくれていた。自分が環境に流されやすいことを十分理解していたので、後者の友達と同じ研究室を選択した。誰の邪魔もなく、熱中して取り組みたいと思っていたからである。
研究活動が始まった。同期のメンバーはテストの成績優秀者ばかりで、真面目に目の前の事に取り組める人ばかりだった。同期の仲良いメンバーを集め、論文の輪読会を週一回当番制で開催したりもした
脳の免疫学研究に取り組むチームに参加した。僕の世代から発足された、研究室で一番新しいチームだった。チームの担当者になった助教授は、学内でいい噂は聞かなかったが、当初は気さくに話しかけてくれる良き教育者という印象だった。しかし研究活動が進行するに連れて、態度が日々変化してきた。実験手法で分からない点を質問すると、イヤホンをしたまま自分の作業に集中して無視をしたり、チームメンバーの物静かな子に冷たい態度を取ったり、面倒くさそうな態度で説明したり、、とまるで教えることを放棄しているように見えた。僕は土日も研究室に通って似たような脳の研究をしている先輩方に手法を習い、何とか完成した脳切片の画像を見せに行った。すると、その画像を目の前でごみ箱に捨てられた。怒りが頂点に達してしまい、その場で怒鳴ってしまった。研究室を出て、家に帰宅後すぐに就寝した。次の日から僕は、研究室に行かなくなってしまった。家でカーテンを閉めたまま、ずっと寝ていたことだけ記憶にある。次の日もその次の日も学校には行かず、携帯の電源もOFFにしていた。この状態は、大学四年の9月まで続くことになるのだが、暇だったのでこの期間で大量に本を読んだ。そして、ある一冊の本をきっかけに生物学が大好きになり、図書館で毎日約12時間生物学を勉強することになる。きっかけとなった本は、

この本である。また、この本を読んだ後にとてもハマったネット記事があった。何度も読み返していたので、鮮明に記憶に残っている。

このネット記事は、組織論に生物学の知見を取り込んだ内容のものだった。
これらをきっかけに生物学への興味が加速し、図書館で自主的に関連本を読み漁り、大学四年生の九月に何とか研究室に復帰することができた。修士論文は先輩の過去研究から引用するなどして何とか間に合ったが、就活はもう終わっていた。残された進路は、大学院進学しかなかった、、。
とりあえず、近大の大学院の受験日が迫っていたので、受けることにした。
しかし近大の大学院に進むとなると、現在所属している研究室のまま大学院進学をすることになるため、憂鬱であった。また、近大で仲良くしていたメンバーと飲み会をした時に、過去の楽しかった思い出を何度も口にする姿を見て、この頃から少し距離を置きたいと感じていた。上記二点の理由から、近大の大学院の入学金を払わず、奈良先端科学技術大学院大学という外部の大学院を受験することを決意した。この時、周囲の緩い環境に流されたくない・二年間を無駄にせず、熱中してみたい・(留学生が多かったので)知らない世界を知る人に出会いたいという思いが非常に強かったことを記憶している。

大学院生

①需要の高い人間に~苦手なことには夢中になれない~

話は、大量に読書していた”暗黒期”に遡る。
この時期からNewspicksの記事を読み始めていた。特に、未来予測系の記事に興味を示し読んで記事にコメントを書いたりしていた。2021年の9月に読んだ「収入は努力や能力ではなく、需要と供給で決まる」という記事を見て、当時今後需要が高まる職業を調べてみた。検索結果としてデータサイエンティスト”や”AIエンジニア”、さらに”サイバーセキュリティエンジニア”などが出てきた。(これからはプログラミングができないと、たくさん給料を稼げなくなる。プログラミングをやってみたい。)と思っていた。”暗黒期”に大量に生物学の勉強をしていたため、大学院の入学試験は学年二位で通過することができた。成績優秀者から研究室を選択する制度であったため、かなり選択の自由があった。バイオサイエンス専攻の研究室でプログラミングを学べる研究室は、”データ駆動型研究室”のみだった。(ここなら今まで学習した生物学の知識も無駄にならない。)と思い、所属することに決めた。しかし一日10時間以上毎日一人でパソコンに向き合い、プログラミングと格闘することはあまりにも苦痛だった。(誰かと話したい、皆で一つの事に取り組みたい)と心の底から思っていた。研究は、週に一回一時間付きっきりで教授に教えてもらう機会をいただき、何とか卒業論文完成にまで漕ぎ着けた。大学院の研究活動で楽しかったことは、教授の悩みを聞くこと卒業論文のプレゼンテーションのみだった。
ただ、全てが苦痛の大学院生活だったわけではない。毎日図書館に行っていたことで、図書館をよく訪れる人に話しかけて仲良くなることができた。

左が物質化学系の専攻にいた安藤くん


右が留学生のENZO

特に、留学生のENZOはフィリピンで元々教師をしており、再度学びを深めるために大学院進学をした人だった。学校までの通勤途中で渋滞にあって8時間車中で待たされた話や朝一番に馬の世話をしてから学校に行く話など、日本では絶対に聞くことのない様々な話に大変衝撃を受けた
たくさんの人との会話を通じて、自分の中にある固定概念を疑うきっかけになった。


②学生団体の設立~就活で感じた危機感~

2021年の10月頃から、就職活動を開始した。
(人と話すことが好きだから、営業職かな。)と軽い気持ちで営業職という軸を設定し、(コンサルタントって言われたいな。)という思いもあったため、営業とコンサルを中心に企業選定することに決めた。
しかし、どちらも文系大学生の人気職種であり、かつ大学院という環境に総合職への就活に詳しい人がいなかったので、学内にいるどの就活アドバイザーに聞いても

「技術職から総合職には移動できる、技術職に行った方が良いよ。」

の一点張りだった。就活開始の時期だけが刻々と迫り、日に日に焦りが募っていた。(就活は情報戦、このままやとどこも受からんかも)と情報不足の状態に頭を悩ませていた。その時、YouTubeで”Utsuさんチャンネル”に出会った。”Utsuさんチャンネル”と出会ってから、この人の言う”人生の目的論”通りに就活を進めていった。同時に、この”人生の目的論”に取り組んだ人が入れるコミュ二ティへ参加した。このコミュニティは、人生の目的を1on1で共有することが目的だった。(よっしゃー!色んな人と1on1するぞ!!)と決意し、その日から(何故か)コミュニティ内だけではなくfacebook内で一日15人へのDM送信を三日間やってみた。そして、返信してくれた5人ほどとZoomで1on1を実施した。

左が飯野くん

それが学生団体を共同創業することになる飯野君(現ブロックチェーンエンジニア)である。彼が僕に

「一緒にコミュニティ作らん??」

とリクエストしてくれた。当然今までコミュニティを作ったことはなく、作り方も全くわからなかったが、新しい挑戦に好奇心をくすぐられ、一つ返事でOKした。彼との出会いで、就活の情報不足に悩んでいた僕が、学生団体のコンセプト作りに頭を悩ませることとなった(笑)そして、

辻くん

辻くんがコミュニティに参加し、コミュニティ名を決めてくれたことでさらに加速した。本当に二人には今でも感謝してる。
僕は、コミュニティに入る人を集めるいわば”採用”に似た機能を担うことになったfacebookでDMを送信し、返信してくれた方と1on1をして勧誘する。これを毎日繰り返す。コミュニティのコンセプトを伝え、相手の心が動き、目の前で参加を決意してくれる瞬間を見ることがとても嬉しかった。結果、上記の方法で15人の新卒がコミュニティへの参加を決めてくれた。15人のうち、核となる中心メンバーを選定し、「今までにはいなかった新しい形の新卒を輩出する」をコンセプトとしてコミュニティの運営が始まった。

しかし、後にこの団体は解散となってしまった。
理由は、
①僕が共同創業者の飯野に、”無知・無能と思われる恐怖”を抱いてしまい、相談ができなくなったこと
採用の方法を統一できていなかったこと。
上記二点である。
このコミュニティ作りにおいても、個性溢れるメンバーが次々にコミュニティに参加してくれた時に、ワクワクが止まらなかった。凄く理想的なコミュニティができたが、自分がまだまだ未熟だった。この時のことを思い返すと、今でも悔しくてたまらない。

企業の人事の方とZoom

③未知への挑戦~走り抜けた二つの日~

大学院生活も後半戦、卒業論文作成に注力していた約一年前の22年12月3日に初めてスパルタンレースに出場した。
”世界一過酷なレース”と言われていることや格闘家の魔裟斗ですら出場してしんどそうな表情をしていたことから、(もし関西で開催されることがあったら、必ず出場する)と心に決めていた。たまたまInstagramでフォローしていたTommy workout gymのTOMMYさんが、大阪大会の出場メンバーを募集していたので、ストーリーの質問に”興味あります”と回答し、そこからDMのやり取りを経て一緒に参加させていただけることになった。レース本番前から参加メンバーの方々と友達かのようにお話させていただき、一緒にゴールする頃にはすっかり仲良くなっていた。知らなかった人と話すことで好奇心が刺激されるとともに、自分らしさを前面に出せている気がした。

そして、もう一つ走り抜けた日があった。今年の2月26日である。
スパルタンレースに出場してから、(直観に従うって楽しい)と思い始めていた。僕は卒業論文作成期間の休憩時間に、散歩することを習慣にしていた。条件は、”携帯を持たず手ぶらであること”としていた。散歩中にふと思った、(42.195kmってどれくらい長いんやろ)って。その時、同じ大学院でランニング好きの友達に声をかけた。大阪マラソンへのエントリーが決まった。
そして出場が決まり、レース本番の日を迎えた。
僕は、5時間以内でゴールすることを目標にしていた。そのために平日5kmを走り、土日どちらかに一日20km走っていた。しかし本番の盛り上がりに鼓動が高鳴り、スタートから5kmはお祭り気分だった。沿道からの声援を浴びながら御堂筋を走る。快感すぎて少し飛ばし気味だった。26km地点で少し足が重くなったため、沿道から配ってくれていたリンゴ酢を飲んだ。寒さはスタート時より和らいだが、少し風がでてきた。冷気を浴びて頬は一瞬寒さを感じるが、大量に分泌されたアドレナリンがそれをかき消す。絶対に最後まで歩かない、歩かない、歩かない、、、。辛くなって自分に負けそうな時は、何度も声に出した。道の脇に置かれたタイマーに目をやった、2時間35分。このまま止まらなければ、4時間を切れるかもしれない。自分の可能性にワクワクした。しかし、32km地点で膝を猛烈な痛みが襲い、悔しさに涙を流しながら走るのをやめた。でも、(目標の5時間は切りたい)という強い想いと目を閉じた時に聞こえる沿道からの声援で、残り約5km地点から再び走り始めることができた。そして、足を引きずりながら何とかゴールできた。脇の歩道で横になって空を見た。部活動以来に感じたこの上ない達成感だった。
タイムは、4時間47分48秒自分で決めた目標にコミットし、自分で達成することの気持ち良さを味わった。そして何より、諦めないことの大切さを体感できた。
 

社会人

①酒・酒・酒~沈んでいく自分~

就活を進める中で様々な人との出会いがあり、いつしか学生団体の運営と就活を同時並行で行っていた。共同創業者の飯野が12月に就職活動を終了させたことで、いつしか自分もとにかく早く終わらせることがゴールになっていた。そして、一番早く合格が決まったデジタル広告専門の広告代理店に入社することにした。この企業は、就活エージェントからカルチャーにフィットしそうだと勧められ、選考を受けることにした。
入社後、約二カ月間みっちり新卒研修を受けた。
研修では、実在する案件を基にマーケティング戦略から戦術までの企画を立案して発表したり、業務で頻繁に使用するExcelの操作速度を高めるための課題に取り組んだりした。企画立案の研修において、SNSアプリを作成してママ友コミュニティを形成するというアイデアを提案し、ある役員から「大胆な発想で面白い」と評価いただけた。非常に濃密な時間を過ごし、乗り越えた自分に自信を持つことができた研修だった。
研修中に面談を行い、5月後半に部署配属が行われた。僕は、第二希望だった新規開拓を専門に行う営業部署への配属となった。会社の中で一番花形の部署だったため、周囲からもてはやされ、仕事に対する意欲は非常に高かった。最高の状態で部署内研修が始まった。部署内研修は、業務に必要な知識を学ぶ座学研修とプレゼンテーションスキルを確認するロープレ研修があった。このロープレ研修で、上司の方々に「プレゼンテーションがうまい」と褒めていただいたことで、伝える・教えることが自分の強みであると再認識できた。
部署内研修が終わり、徐々に実際の業務へ着手していくこととなった。
毎日必死に目の前の業務に取り組むも、上手くいかず度々上司から注意を受けた。僕は、注意された後の静かな雰囲気に我慢できず、場を和ませようと終始笑顔で受け答えしていた。しかし、その笑顔で受け答えしている姿が、いつもヘラヘラしていて調子に乗っていると上司から勘違いされてしまい、イライラさせてしまっていた。その結果、教えて頂く機会が少なくなり、「自分の好きなようにやれ」ぐらいの指示しかもらえなくなった。業務に関する自分の意見も全て言い訳だと捉えられてしまっていた。自分の存在を全否定されているような気がして、上司に相談することができなくなり、目の前の仕事から逃げるようになっていった。そして、上司から案件を任せてもらうことが無くなり、新規開拓をしても一軒も獲得できない日々が続き、仕事せず一日を過ごす日が続いた。自分の体力を夜に使い果たすため、飲み会や合コンがあれば平日にも躊躇わず参加した。会社外の人と繋がりを持とうと”社長メシ”というイベントに参加し、そこで仲良くなった一歳上の経営者とガールズバーに行ったり、相席屋に行ったりを繰り返した。朝方まで遊んで、次の日仕事に行った。中目黒のよく通っていた焼き鳥屋の店主から合コンに誘われ男性4人を集めて30歳後半のお姉さんと知り合った。マッチングアプリに課金して35~45歳の年上女性と出会い、何度もデートに行った。知り合ったお姉さん方に呼び出されたら何時でも指定された場所に行った、そこで朝方までお酒を飲んだ。仕事が手につかない状態になっていた。とある一日、この日も朝方まで飲んでから帰宅し、フレックス制に甘えて10時30分頃まで寝ていた。目が覚めて出社しようとしたが、寝たきりになって会社に行くことができなかった。この日から在宅の日以外、会社を休むようになった、、、。会社を休みがちになっていた時期に、彼女ができた。出勤した彼女が毎日”今日も頑張ろうねー!”とLINEで連絡を送ってくれていた。”おう!頑張ろな”と返信した時に、自然と涙が出てきた。
(くっそー、この状態からいち早く抜け出したい。何か行動せな。)

②このままではやばい~コーチングとの出会い~

GOAL-Bの存在は、以前から知っていた。
学生団体のメンバーだった辻くんから”AKIOBLOG”というYouTuberの存在を教えてもらった。最初に見た動画は、アメリカ海軍の訓練体験をしているものだった。凄い、、の一言だった。でもその時は、生きる世界が違う人の様に感じていた。ただ毎朝5:00~6:00に起床していた僕は、朝のルーティンにランニングだけでなく、R25チャンネルで”AKIOBLOG”が紹介していた「直感と論理をつなぐ思考法~VISION DRIVEN~」の本を買って読み、すぐにヒンジブラックとA4用紙、パイロットVコーンのボールペンを購入して学校の図書館で毎朝自分の感情を15分間書きまくることと、神社のベンチでの瞑想を加えた。大学院生の時から影響を受けていた、、、
会社を休みがちになっていた時に、たまたまインスタのストーリーで体験コーチングの広告が出てきた。今の状態から抜け出したいと強く思っていた自分は、何か、何か動き出さないと何も変わらないと思っていた。会社を休んでいた日に見たぐっさん(山口嘉竜さん)の動画でも、「行動を変えなければ、現状は変わらない」と言っていたことを思い出した、確かにその通りだと思った。藁にも縋る想いで体験コーチングに申し込んだ
体験コーチングで、長崎立さんとお話した。あまりにも自分と似た経歴、そして考え方を持たれていたので、凄く親近感が湧いた。ただ、目の前の立さんが凄く輝いて見えたことを覚えている。そして、コーチングの受講料を見た時に怖くなったことも記憶に残っている。一瞬マルチに引っかかった大学生の自分の光景が脳内で再生されたが、立さん自身がコーチングを受講して現実を変えておられたので、キャリアコーチングの受講を決意できた
正直、決意した後も凄く怖かった。(騙されてたらどうしよう、どうしよう)何度も思った。心臓のドキドキが止まらなかった。
キャリアコーチングが本格的にスタートした。ここで、真さん(太田真徳さん)との出会いがあった。Day0に自己紹介を聞いた時、目の前にいる如何にも最強ビジネスマンのオーラがある真さんにも、今の自分のように仕事を避けていた時代があったことが信じられなかった。と同時に、コーチングセッションに当事者意識をもって取り組めば、自分ももしかしたら変われるかも、、、という望みも持てた。このDay0から自分の事を徹底的に知ると決め、そのために毎回セッション動画を見て自分を徹底的に観察すると決めていた。そして決めた通りに、セッション動画を多い時には三回見た。真剣に取り組むことで、セッション外でも自分のことを考える時間が増えていった。今まで見たドラマ・映画・マンガの内容を調べた。解像度高く自分のことが分かってきた。自分は、

組織作りをしていきたいということ。
人や組織の変化・成長に貢献したいということ。
・大事な五つの価値観熱中成長影響洗練信頼を全て満たし、
一体感のある組織に属すること。

この三つを全て実現できる環境は、今の会社にはないことは明らかだったので、転職先が決まっていない状態で退職届けを提出した。ここで退路を断ち、自分を背水の陣に追い込まないと中途半端になると思っていたので決断した。後悔は全く無かった、もう前しか見ていなかった。

ここまで読んでくださった方々へ

皆さんにとって"成功"ってなんですか?
目立つこと、沢山お金を稼ぐこと、友達に年収で勝つこと、役職者になること。今までの僕は、こんなことが成功だと思っていました。だから会社で仕事が任されなくなった途端に、自分に生きる価値すら見出せなくなっていました。そして、周囲の仕事が上手くいっている人を妬み始める本当に自分が嫌になりました。入社初日の通勤中の電車の中で、暗い顔をしている人たちを見て、(毎日笑顔で出社する、この人たちの様に自分はならない)そう思っていました。でもいつしか、ミイラ取りがミイラに。オフィスに行きたくない気持ちになんとか抗おうと、電車の中でメモ帳に"諦めない、できるまでやる"と何度も書いていました。でも、オフィスでは上司の表情を伺い、業務の分からないところを質問できませんでした。そして、「相談は社会人の基本中の基本だ」と怒られ、余計に何も言えなくなりました。
でもコーチングを受講し、成功の定義が書き変わりました。成功とは、

自らの得意領域を活かして、人の役に立ちまくる事

だと気づくことができました。
自己分析を徹底的にしたことで、進みたい道が見えてきました。自分が人の役に立てる得意領域を認識できました。毎回のセッション終わりに動画を見て、自分の発言で特に心に残った言葉を書き出しました。学生団体を一緒に作った辻くんに、最初に出会った時の1on1の録音を貰い、それを会社の通勤中や休憩時間に聞いて、気になった発言を全て書き出しました。幼少期にハマったドラマや映画を思い出して、どんなストーリーだったか全て抽象化をして確認しました。自分の本当にやりたかった事を見つけたくてこの先の人生を後悔せずに進みたくて自然と夢中になれる事を仕事にしたくて、、、。こんな想いで、毎セッションに取り組みました。YouTubeでいつも元気を貰っていて、生き方に惚れていたぐっさんこと山口嘉竜さんにslackで動画とDMを送り、1on1させていただきました。昔から自分がやりたかったことの解像度がとても高くなりました。生涯を通じて貫き続ける"対人支援"という軸にも出会うことができました。気づけば、上司に退職する事を伝えていました。
そして、、人生を賭けてやりたいことに辿り着きました。それは、

多くの人の"夢中"を作る

このために僕ができることは、

一歩踏み出す勇気を与える

今までの人生、前を向いて進み続けることだけはやめなかった。借金した時も研究室に行かなくなった時も就活の情報が全くなかった時も仕事で負のスパイラルに陥った時も。だからどんなにどん底で苦しくても、一緒に前を向いて進みましょう。そして、自分の心から納得できるオリジナルの成功を見つけましょう!!オリジナルの成功を見つけたら、後は最高の環境を見つけて飛び込むだけです。

現在24歳
僕は、最高の環境に飛び込む覚悟を持てました。後は最高の環境で、信頼を獲得するために行動して結果を残すのみ。

毎日が最高の人生にします!!


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