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ここではない、どこかへ

 

 何から語ろう。……ほとんど語るべきことなんて何もないようにも思えるのだけれど、でも、とりあえず、僕は今、何かを語りたくて、こうして筆を執っている。

 では、まず僕の年齢から。僕は今年で三十歳になる。今はまだぎりぎり二十代だけれど、でも、あともう少しで三十歳になる。正直、自分が三十歳になるなんてことが現実に起こるとは思っていなかったし、またその準備もまるでできていないのだけれど、でも、そんな自分の意志とは無関係に、あともうほんの数ヶ月のうちに、僕は三十歳という年齢を迎えてしまう。

 ……三十歳。三十歳という年齢は、もう、どこからどう見ても完全な大人だ。二十歳とは違う。それなりに成熟し、精神面でもある程度成長していなければならない年頃だと思う。でも、僕は全然違う。だから、僕は自分の三十歳という年齢に対して、激しい戸惑いを覚えることになる。世間のみんなに対して叫びたくなる。違う、と。僕は三十歳なんかではないのだ、と。確かに年齢的には三十歳なのかもしれないけど、でも、まだ、心は、その精神は、昔のまま変わっていないのだ、と。僕の精神年齢はずっと昔に成長を止めてしまっている。たぶん、十九歳か、二十歳くらいの段階で。

 僕は小説家だ。……申し訳ない。嘘をついた。つい見栄を張りたくなった。正確には、僕は小説家に成りたいと思っている人間だ。そんな人間は世の中には吐いて捨てる程大勢いて、僕もそんな大勢のうちのひとりだということだ。そしてほんとうのことを語ったついでに、もうひとつ真実を語っておくと、僕は働いていない。無行者だ。収入はゼロ。じゃあ、どうやって生活をしているのかというと、それは仕送りによって、だ。親からの。多分、ほとんどの全てのひとが、僕のことを甘えていると思ったことだろう。無理もない。僕もそう思う。将来それでどうするのか、と。

 ……実際、どうするのだろう。正直言って僕にもよくわからない。わかっているのは、ただ今は働きたくないということだけだ。なぜ働きたくないのかというと、それは小説を書くためにはたくさんの時間が必要だからだ。とても正社員の忙しい業務の合間に小説を書いてくことなんてできないと思う。少なくとも、僕にとっては。確かに、僕の書く小説なんてくだらないし、退屈だし、なんの価値もないじゃないかと言われればそれまでなのだけれど。一体、そんな小説を書いてどうするのかと問われても、僕は上手く反論できない。でも、それにもかかわらず、僕は小説を書きたいと思っている。生きている時間のできるだけ多くを、そこに、小説を書くことに費やしたいと思っている。生活費を稼ぐためにではなく。将来の安寧のためにではなく。だって、僕たちは、少なくとも僕は、将来、歳をとったとき、貯蓄で安心して生活していけるように生まれてきたわけではないと思っているから。

 しかし、そんなふうに思いつつ、一方で、僕はひどく脅えていたりもする。もし、このまま、小説ではなにひとつ結果が出せず、歳だけを取り、道端で朽ち果てるようなことがあったら、と。多分、そんなに死に方を望む者は誰もいないだろう。だから、将来のことが不安じゃないと言ったら嘘になる。本音を言えば、安心したいと切望している。でも、我儘だけれど、かと言って、働きたくもないのだ。このまま小説を書き続けたいと思っている。……将来のことを思うと、僕はいつもやわらかな行き止まり、壁に、ぶち当たることになる。それは黒色をしていて、生暖かく、粘り気を持っている。そして僕がその壁の前で立ち尽くしていると、壁は、その口を、歯のない、真っ暗な口を開いて、僕を飲み込んでしまうのだ。僕の意識は、ときどき、その生暖かい絶望のなかで窒息しそうになる。

 ところで、僕の銀行口座には、一応毎月、二十万の金が、親、父親から振り込まれることになる。もちろん、いい年をした大人が働きもせずにいることに対して、両親がいい顔をしているわけがない。大学を卒業してから十年近い歳月のあいだ、僕は何度も両親とは口論のようなことを繰り返してきた。親は口を開けばいつも言った。将来それでどうするのか、と。年を重ねれば働く場所もなくなるんだぞ、と。早く就職するべきだ、と。手遅れにならないうちに、と。でも、僕は先にも述べたように、頑迷にそれを拒否し続けてきた。僕にとっては小説を書くことが何もよりも大切なことで、今のところ働くつもりはない、と。そのうちに、彼らも根負けし、半ば諦め、今では就職しろとはうるさく言わなくなった。今のところ……それがいつ、唐突に打ち切られることになるのかはわからないながらも、僕の銀行口座には、父親から毎月二十万円の金が振り込まれていた。有り難いことに、僕の父親にはある程度の経済的余力があるのだ。

 これまでに述べてきたように、僕は所謂ニートだ。働いてもいないし、学校に通っているわけでもない。でも、世間一般のひとが思い浮かべるニートとは違って、僕は実家住まいではなく、一人暮らしをしている(一人暮らしをしているのは、両親に自分の生活にあまり干渉されたくないからだ)。僕は大学進学と同時に東京に行き、そこで一人暮らしを始めた。その後、何度か引越しを繰り返したあと、現在僕が住んでいる、この、埼玉県のとある場所に落ち着くことになった。僕がこの場所を選んだのは、東京に比べて家賃が格段に安かったのと、都心に出たいと思った際に、いつでも出ていける距離にあったからだ。間取りは1DKで、家賃は三万五千円だった。二十万円の収入でも贅沢をしなければ楽に生活していくことができる。最寄駅周辺は田舎ではあったけれど、でも、かといって極端に何もないわけではなく、生活に必要なものは普通に手に入った。また自転車で少し移動しさえすれは、何でも揃うショッピングモールに行くこともできた。というわけで、生活はまずまず便利だった。都心に住んでいたときと比べて左程不便を感じることもなかった。それに、僕はもともどちらかというと、引きこもりがちだったので、極端な話、住む場所はどこでも良かったのだ。

 僕は部屋にいるとき、大抵小説を書いて過ごしている。僕が書いている小説は、所謂文学と呼ばれるタイプのものだ。殺人実験が起こったり、宇宙人が出てきたりはしない。じゃあ、どういう小説なのかというと、ものすごく簡単に説明してしまうと、それは、僕が普段日常生活を送っていくなかで、思ったり、感じたりしたことを、小説風に書いたもの、ということになるのだろうか。要するに、普通のひとにとっては、退屈な小説ということになるのかもしれない。

 僕が小説を書くようになった切っ掛けは、中学生のときに読んでいたファンタジー小説だ。僕はその小説を読み終えてしまったとき、ものすごく寂しい気持ちになった。どうにかしてその物語の続きを読むことはできないものだろうかと真剣に思い悩んだ。そしてあるとき僕は気がついたのだ。だったら、自分で物語を書けば良いのだ、と。そうすれば、終わらない、物語を読むことができるじゃないか、と。そのようにして、僕は物語を書き始め、気がつくと、本気で小説家に成りたいと切望するようになっていた。

 小説家に成る方法はいくつかあるのだけれど、取り敢えず、僕が実践しているのは、どこかの出版社が主催している文学賞に応募することだった。もし、そこで運よく賞を取ることができれば、晴れて、僕はほんものの、小説家になることができる。しかし、僕がこれまでに投稿してきた小説は、今のところ、落選続きだった。自分の名誉のためにも本来であればこういうことは伏せておきたいところなのだけれど、でも、正直に述べると、僕はまだ一次選考すら通過したことがなかった……大学を卒業し、今の生活をはじめてから既に八年が経とうとしているのに。僕は何一つとして、目に見えた結果というものを残せていなかった。要するに、僕には、小説を書く力が、その才能が、ない、ということになってしまうのかもしれなかった……というか、実際、その通りなのだろう。そう考えると、僕はひどく冷え冷えとした気持ちになることになった。まるで深くて暗い海の底に向かってゆっくりと沈んでいくみたいに。そしてそうしながら、遥か遠い水面でキラキラと揺れる光の欠片を眺めているみたいに……僕が生きて行くなかで一番やりたいと思っていることは、小説を書くことで、小説を書くことによって収入を得ていくことで、でも、その望みが永遠に叶いそうにないとわかると、僕は悲しくなってしまうのだ。ときには死にたくなってしまうほどに。人によっては大袈裟と思うかもしれないけれど、でも、当の本人の実感としては、ほんとうにそうなのだ。この世界にどれほど他に多くの選択肢があろうとも、僕は、やはり、どうしても、小説家に成りたいと思ってしまうのだ。

 ……そんなわけで、自分には小説を書く才能がないからといって、ここらへんで小説家になることはきっぱりと諦めて、べつの道を探そうという気持ちには全く成れなかった。僕は往生際悪く、未練たらたらと……自分には才能なんてないと自覚しつつ、小説を書き続けていた。誰も読んでくれる見込みのない文章を、謂わば、空白を、紡ぎ続けていた。ひんやりと冷たい、透き通った暗闇に、意識をぴったりと縁取られるようにしながら。

 しかし、そんなふうに僕は、自分の心のなかに、どうしようもない暗闇、現実が、自分の思う通りにならないという苛立ち、というよりかは虚しさを抱えながらも、一方で、最近、新たな、密かな、喜びを見出してもいた。それは、インターネット上に、自分の作品を発表するということだった。

 近年、スマートフォンの普及等も手伝って、一昔前に比べて、かなり簡単に、自分の書いた小説をインターネット上に公開することができるようになった。パソコンに関する特別な知識も必要なく、誰でも、手軽に、簡単に、いつでも、自分の書いた小説をインターネット上に公開することができる。もちろん、そこには膨大な量の小説が掲載されているので、そのなかから自分の小説を読んでもらえるようにするためには、かなりの努力が必要とされるのだけれど、しかし、ただ単に小説を発表することができればいいのであれば、特になんの支障もなかった。そして僕としてはそれで全然構わなかった。今まではどこにも発表することができなかった自分の小説を、発表する機会を得ることができるだけでも、僕としては十分過ぎる程有り難かった。更に言えば、その数は決して多くはないものの、僕の書いた小説を読んでくれる読者も一定数は存在した。そしてそのことは、僕にとって大いに励みとなった。こんな僕の書いた小説でも読んでくれるひとはいるのだ、と。だから、僕はその小説の投稿サイトで、細々と自分の小説を発表し続けていた。その数少ない読者に対して、僕の……たぶん、いくらか安っぽく、陳腐な物語を……語り続けていた。

 そして僕が彼女と知り合ったのは、僕がそのようにしてインターネット上に自分の作品を発表するようになってから、半年程が経った、とある日のことだった。それは六月のはじめ……夏がはじまる少し前のことだった。

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 僕はその日、いつものように朝の十時頃、ベッドから起き出した。どうやら雨が降っているらしく、家の外から、雨粒が色んなものを濡らしていく音が静かに聞こえた。鼓膜から僕の意識のなかに入り込んだそれらの音の粒は、僕の意識のなかで溶けると、その箇所を、ほんのり淡い、ブルーに染めていった。どこか冷たいような感じのする色彩。

 僕はバスルームで顔を洗い、歯を磨くと、ダイニングルームで朝食を作って食べた。コーヒーと、トースト二枚。それから、目玉焼きひとつ。朝食を食べ終えると、僕は机の前にある椅子に腰掛けた。それから、おもむろにノートパソコンを開き、そのスイッチを入れる。やがてパソコンが起動すると、僕は取り敢えずという感じでインターネットにアクセスした。昨日の自分の小説のアクセス数を確認しようと思ったのだ。そして開いたサイトの管理画面に、僕は何か見慣れないマークを発見することになった。これはなんだろうと思って、僕はパソコンの画面に顔を近づけることになった。すると、しばらくしてそれが、読者からの感想が届いていることを伝えるアイコンであるということがわかった。小説の感想が届いているとわかって、僕はかなり興奮し、また同時にひどく怯えもした。

 これまでに僕の書いた小説に対して、読者からの感想が届いたことはまだ一度もなかった。だから、感想が届いたこと、それ、自体は嬉しかったのだけれど、でも、反面、それが、否定的なコメントだったらどうしようと僕は怖くなってしまったのだ。もし、そこに、お前の書く小説は限りなく退屈だ、読んでいて思わず失笑してしまった、等というようなことが書かれてあったら、僕はもう二度と立ち上がれないかもしれないと思った。

 でも、結局、どんな感想が書かれてあるのか、かなり気になったので、メールを開いてみることにした。またもし仮に否定的なコメントが書かれてあるにしても、それは、今後小説を書いていく上で、大いに参考になるだろうと思った。というか、参考にしていかなければならないのだ、と、自らを奮い立たせるようにして、僕はメールを開いた。

 しかし、開いてみた感想は、いささか拍子抜けするものだった。僕は何だか肩すかしを食らわされたような気分になった。メールの文章にはこう書かれてあった。

 小説読みました。何か、考えさせられました。また来ます。

 メールに書かれていたのは、ただ、これだけだった。……正直、これだけでは、このメールの送り主が、僕の小説を読んでどんなふうに思ったのか、全くわからなかった。文章を見ている限り、僕の作品がものすごく退屈だったとか、そういうわけではなさそうだったけれど、かといって、すごく僕の作品が気に入ったとか、感激したとか、そういうわけでもなさそうだった。また来ますというメールの一文に、ほんの少しくらいの好意を感じることはできたけれど(普通、もう二度と読みたくないと思った作品に対してまた来ますとメールを書いたりはしないだろう)。

 メールの送り主の名前はアリスとだけあった。これだけではメールの送り主が、男なのか、女のか、全く判断できなかった。でも、なんとなく、メールの送り主は、女性なのではないかという気がした。年齢についてはわからなかったけれど。すごく若いような気もしたし、逆にもっと年上のような気もした。

 ……アリス。僕は思考のなかでなんとなく、その名前を反芻してみた。何故か、不思議に引きつけられる名前だった。『不思議の国のアリス』という名前の童話と何か関係するところがあるのだろうかと僕は気になった。僕はもう一度アリスという名前の読者から届いたメールを読み返し、彼女に返信することにした。そして以下が、僕がアリスに送ったメールの文面になる。

 こんにちは。メールをどうもありがとう。今まで感想をもらったことなんて一度もなかったので、すごく驚いています。と、同時に、すごく感激してもいます。きっと僕の書く小説はまだまだ未熟だし、詰まらないところも結構あると思うけど、でも、またアリスさんに読んでもらえると嬉しいです。ではまたメールを楽しみしています。

                            サカナ

この物語の続きをAmazonで販売しています。もし良かったら、読んでやってください。『ここではない、どこかへ・水気を帯びた記憶』です。ペンネームは、海田陽介となっています。よろしくお願いします。

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