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アンダーワールド

 漆黒に近い暗闇を、黄色い光が二本、鮮やかに切り裂いている。それは僕と工藤先輩が頭に被っているヘルメットに固定されたライトの光だ。一応、電灯の光もあることはあるけれど、かなり間隔をあけてポツンポツンとあるだけなので、周囲の空間は基本的にかなり薄暗い。

「マジでさぁ。こういうところ歩いてると、地底人とかでできそうだよなぁ」

 工藤先輩は僕の前を歩きながら、面白がっている口調で言った。

「やめてくださいよ。地上にいるときならともかく、こういうところでそういう話すると、マジで怖くなるじゃないですか?」

 僕は半分面白がって、半分本気で恐がりながら言った。

 今、僕たちは地下鉄の線路の上を歩いている。なんでも地下鉄の線路の定期点検だという話だった。僕も詳しいことはよくわからない。僕はこの短期バイトをネットで偶然見つけた。時給はかなり良く、一週間は働いただけで二十万円以上の金が溜まるはずだった。金欠だった僕はこのバイトに飛びついた。かなりの数の人間を採用しているらしく、募集をかけている派遣会社に面接を受けに行くと、その場で即採用となった。そして今日はそのバイトの初日だった。

 このバイトは定期的に発生するものらしく、僕の前を歩いている工藤先輩はこれでこのバイトはもう四回目になると話していた。時給が良いので、毎回やっているらしかった。ちなみに、工藤先輩はフリーターで、売れないミュージシャンをやっているらしい。背が高く、痩せてひきしまった身体つきをしている。会話の流れで僕が工藤先輩に何の楽器をやっているのかと訊ねると、工藤先輩はギターをやっていると答えた。なるほど、でも、確かに、彼のその容姿は、僕のなかのプロのギターリストのイメージとぴったり一致した。背が高いところとか、痩せているところとか、女の人のように背中のあたりまで髪の毛を伸ばしているところとか。年齢は僕よりも四つ年上で、二十六歳だという話だった。

 一応、付け加えて置くと、僕は二十二歳で、細身の身体つきをしている。背は高くもなければ低くもない。百七十センチをちょっと超えたくらいだろうか。僕も工藤先輩と同じフリーターで、劇団員をやっている。劇団員といっても、かなりアングラな、知っているひとはほとんどいないような無名の劇団だ。だから、もちろん、公演は毎回赤字続きで、かなり僕は貧乏だ。更に言うと、劇団員をやっていると、なかなか固定の仕事を続けるということができないので(というのは、公演日が迫ると劇の稽古が忙しくなってとてもバイトなんかしていられなくなる)今回のバイトのように、短期である程度纏まった金を手にすることができるというのは、かなり有り難い話だった。とは言え、まあ、時給が良いだけあって、労働環境はお世辞にも良いとは言えなかったけれど。まず、湿度が高く、かなり蒸し暑い。ネズミやら、ミミズやら、あと、わけのわからない虫がウジャウジャいる。さっきは、ほんとうに、誇張でもなんでもなく、体長二十センチくらいはありそうなゴキブリを目にした。しかも、大群で。だから、とてもこの仕事は女の子には勤まらないと思う。でも、反面、労働環境が劣悪な代わりに、仕事内容は比較的楽だった。こんなことでこんなにたくさんの金がもらえるのかと口元がニヤケてしまいそうになるくらい。というのも、仕事といっても、こうして地下鉄の線路の上を歩いて、異常がないかどうか見て回ればいいだけなのだ。どこかの壁から水が漏れてきていないかどうかとか、線路が曲がっていたり、破損している箇所はないかどうかとか。もし、まずいところがあったら、紙にチェックをして、あとで社員のひとに報告する。今のところ、最初に仕事内容を説明してくれた社員のひとに頼まれた仕事はこれだけだった。もし、ほんとうに仕事がこれだけだとすれば、これはかなりオイシいと思う。

「いや、さあ、冗談じゃないんだよ」

 僕がぼんやりと俯き加減に歩いていると、工藤先輩は更に言葉を続けて言った。それから、ちらりと僕の方を振り返る。

「前、一緒に働いていたひとが話してたんだよ。地底人みたいなのに襲われたやつがいるって。そしてそいつはそのまま戻ってこなかったって」

「……それ、たぶん、そのひとが工藤先輩を怖がらせようとしてそんなことを言っただけですよ。たぶん」

 僕はちょっと本気で怖くなったので、それを誤摩化そうとして、半笑いのような笑顔で答えた。すると、工藤先輩は足を止めて僕の方を振り返ると、真顔でじっと僕の顔を見つめた。それから、また工藤先輩は前に向き直ると、歩き出しながら、

「いや、そんな感じなかったよ」

 と、工藤先輩は言った。

「そんな、俺を怖がらせようとしているとか、そんな感じじゃなかったな……」

 と、工藤先輩は半ば独り言を言うように続けた。僕が黙っていると、

「その一緒に働いたひとは四十歳くらいのおじさんでさ……俺と同じで時給が良いから毎回やってるみたいなんだけど……毎回、何人か行くへ不明者が出るみたいなんだよ。この地下鉄のバイトのあと。だから、このバイトは楽なのに、こんなに時給が良いんだって、そのおじさんは話してたな」

「……で、でも」

 と、僕は反論を試みた。僕は工藤先輩の話にかなりの恐怖を覚えたので、そんなことはないと否定して、自分の気持ちを落ち着けたかった。

「……も、もし、工藤先輩の言う通り、毎回、数名の行くへ不明者が出ているとしたら、今頃大騒ぎになってるはずじゃないですか?バイトに行ったまま、戻ってこない人間がいるって」

 工藤先輩は僕の問いに答えなかった。立ち止まって、じっとしている。歩き続けていた僕は勢い、工藤先輩の背中にぶつかりそうになった。

「工藤先輩?」

 僕が言葉を続けようとすると、工藤先輩は怖い表情で僕の顔を振り返って、静かにという合図を出すように右手の人差し指を口の前に持って行った。僕は工藤先輩のただならない様子に黙った。しばらくの沈黙のあとで、

「今、何か変な物音が聞こえなかったか?」

 と、工藤先輩は緊迫した表情で言った。

「や、やめてくださいよ。そんなふうに僕を怖がらせようとしたって無駄ですって」

 僕は微笑して言った。

「いや、冗談なんかじゃねぇって」

 工藤先輩は僕の顔を見ると、真顔で怒ったような口調で言った。それから、工藤先輩は周囲に何か異変がないかどうか確認するようにぐるりと辺りを見回した。僕も工藤先輩の様子から工藤先輩が決して僕のことをからかおうとしているのではないということがわかったので、慌てて辺りを見回してみた。でも、今のところ、特に不自然な点は感じられなかった。さっきまでと何ら変わらない、普通の地下鉄の空間が広がっているだけだ。周囲の空間もしんと静まり返っていて、工藤先輩が言っていた不審な物音のようなものも聞こえてこない。強いて言えば、僕たちが歩いている上の階層を走っている地下鉄が走るゴオーという音と、どこかの壁から水が滴っていると思われるピチャピチャという音が聞こえるだけだ。

「……どうやら大丈夫みたいだな」

 かなりの間隔をあけてから、やっと工藤先輩は警戒を解いたように言った。

「……何があったんですか?」

 僕は気になったので、工藤先輩の顔を見つめると訊ねてみた。工藤先輩は僕の顔を一瞥すると、

「……いや、何か生き物の息づかいみたいなのが聞こえたような気がしたんだよ……シュー、シューっていう……でも、どうやら気のせいだったみてぇだな」

 と、工藤先輩はもう一度疑わしそうに周囲の空間を見回してから言った。それから、工藤先輩は気を取り直したように再び前に向かって歩き出した。僕も黙って工藤先輩のあとに続いた。

「……さっきの話だけどさ」

 と、歩き始めてからしばらくしてから、工藤先輩はふと思い出したように話はじめた。工藤先輩はちらりと僕の方を振り向いて、また前に向き直った。

「お前がさっき言ってた、大騒ぎになるって話」

「……はい」

 僕は頷いた。

「それは、そのひとの話によると、何らかの圧力がかけられているんじゃねぇかっていう話だったぜ?地下鉄のバイトで行くへ不明者が出ているってことが表に出ないように」

「圧力って?」

 僕は前に向かって足を動かしながら訊ねてみた。すると、

「政府関係だよ」

 と、工藤先輩はなんでそんなこともわからないのだというように言った。

「政府の関係者が圧力をかけて、そういった話をもみ消してるんじぇねぇかって話だよ」

 工藤先輩は僕の方をちらりと振り返ってから言った。

「政府関係者?」

 僕はびっくりして言った。

「……ああ。この地下鉄のバイトは表向きは、地下鉄の路線の定期点検ってことになってるけど、ほんとうは、さっき俺が話した、気味の悪い生き物が侵入してきたりしていないかどうか、俺たちを使って確認させてるんじゃねぇかって話だよ。……何しろ、こういうバイトに食いつくやつらって、急にいなくなったりしても、そんなに不審に思われないっつうか、足がつかないひとたちばっかりだからさぁ……まあ、俺もあんまひとのことが言えた義理じゃねぇけど、なんつーの?要するに、貧乏人つうか、ホームレスみたいなさぁ……だから、たとえ何かあっても、すぐにもみ消せるっていう話よ……そのおじさんの話だと」

 工藤先輩は本気とも冗談ともつかない口調で言った。

「……まさか」

 僕は口元に強張った笑みを浮かべて言った。

「政府がそんなことするわけないですよ。だって、それは明らかに人権侵害ですし。しかも、第一、地底人とかあり得ないですって」

「……まあ、俺もそう思うけどよぉ」

 と、工藤先輩は苦笑するように軽く笑って認めた。

「でも、やっぱ、時給良過ぎだと思わねぇか?」

 と、工藤先輩は続けて問題提起するように言った。

「だって、こんなふうにほとんど何もしてないのに時給四千円だぜ?あり得ないだろ?普通?だから、さっきのおじさんの話はまんざら的外れてってわけでもないような気もするんだよなぁ」

 と、工藤先輩は首を傾げながら言った。

「……まあ、さすがに地底人はないにしてもさぁ、何らかの危険、しかも、かなりの危険があるからこそ、こんなに楽なのに時給が良いんじゃねぇかって」

「……確かに、それは一理あるような気もするけど……」

 僕は軽く引きつった笑みを口元に浮かべて答えた。確かに、他のバイトに比べると異様とも言って良いくらいの時給の良さだった。そこには何かしらの危険手当のようなものが含まれていたとしてもおかしくはない気がする。でも、だとすると、それは一体に何に対する危険手当なのだろう?……まさか、ほんとうに地底人?……いや、それは絶対にない。……だとすると?僕がそんなことを頭のなかで考えていると、

「悪りぃ。ちょっとしょんべん」

 と、僕の前を歩いていた工藤先輩が唐突に歩みを止めて言った。僕も工藤先輩に続いて歩くのを止めた。工藤先輩は僕の方に向き直ると、

「すぐに戻るから、ちょっと待ってて」

 と、言って、工藤先輩は段になっていて、僕の位置からは見えないようになっている線路の脇の方まで小走りで走って行った。周囲にはトイレなんてないので、催した場合は当然どこかで適当に済ませることになる。僕は工藤先輩の背中が視界から見えなくなると、背中のトンネルの壁にもたれかかるようにして、工藤先輩が戻ってくるのを待った。

 さっきまで聞こえていた工藤先輩の話声と、僕たちの歩く足音が聞こえなくなったせいで、辺りは急にしんと静かになった。どこかからか水がしみ出してきているのか、ピチャピャという液体の流れる音が聞こえた。それからまたゴォーという上の階層を地下鉄が走り過ぎて行く音。……僕は地下鉄の暗い空間のなかにいるせいか、また工藤先輩の言っていた地底人について考えることになった。まさか、そんなものがいるはずはないということはわかっていても、こんな、地下の暗い世界にいると、嫌でもそういうことを考えざるを得なかった。……そんなものは絶対はいるわけはないのだけれど、でも、もし、いたとしたら、それはどういった姿をしているのだろうと僕は想像してみた。

 まず第一に、それは、ずっと地下の暗い世界にいるので、目は退化してなくなっているだろう、と、僕は予測した。目の代わりに、何らかの感覚器官が発達にしている。たとえばヒゲとか、触覚とか、そういったもの。それから、腕がモグラのように特殊に発達している。地下の空間を自由に掘り進んで移動することができるように。必然的に彼等の腕力は強力になっている。恐らく人間の十倍くらいはある。そして彼等はときどき地下に迷い込んだ人間を襲って食べる。たとえば地下鉄の職員とか。技術者とか。口は耳元まで大きく裂けていて、そこには鋭角的な歯が生え揃っている。そして牙なんかもあったりする……と、そこまで僕は想像を膨らませたところで、違和感を覚えた。遅くないか?僕は思った。工藤先輩はさっき尿を催したと言っていた。それにしては戻って来るのが遅過ぎると僕は感じた。もう工藤先輩から小便をしてくると言ってから、五分近くは経過している気がした。

「工藤先輩?」

 少し不安になった僕は、工藤先輩の姿が消えて行った暗闇のあたりに向かって声をかけてみた。しかし、返事はなかった。

「工藤先輩?」

 僕はもう一度、今度はさっきよりも大きめの声で工藤先輩の名前を呼んだ。でも、やはり返事はなかった。……まさか、工藤先輩は地底人に襲われてしまったのだろうか?ついさっきまで地底人について想像していたせいなのか、つい、あり得ない事を考えてしまった。そしてそのあり得ない考えは、周囲の暗闇の色素を吸い込んで、僕のなかではあり得ないことではなくなりつつあった。僕は明確な恐怖を覚えた。

「工藤先輩!」

 僕はもう一度大きな声で工藤先輩の名前を叫んだ。でも、やっぱり応答はなかった。

「……マジでやめてくださいって」

 僕は狼狽えて言った。

「俺、こういうの、本気で苦手なんですって」

 きっと僕のことを怖がらせようとして工藤先輩はふざけているのだろうとは思ったけれど、でも、やはり、環境が環境なので、露骨に怖かった。何かがあったんじゃないかと僕は思った。工藤先輩に。

「工藤先輩?」

 と、僕は小さな声で工藤先輩の名前を呼びながら、さっき工藤先輩が消えて行った空間のあたりに向かってゆっくりと近づいていった。そしてやがて僕はそこに辿り着くと、工藤先輩の姿を求めて辺りをキョロキョロと見回してみた。でも、見当たらなかった。どこにも。工藤先輩の姿は。

「工藤先輩!」

 僕はまた大声で工藤先輩の名前を叫んだ。でも、最初のときと同じように返事はなく、代わりに、トンネンル状の空間のなかに、僕の叫び声がやまびこのように響き渡っただけだった。

 ……工藤先輩はどこかに隠れているだけなんだろうか?でも、これだけ僕がビビっているのだから、もうそろそろ工藤先輩も姿を表してもいい頃のはずだった。でも、そうじゃないということは……つまり……。僕はもっと辺りをよく見てみようとして足を動かした。そしてその際に、左足のかかとの部分が、何か軽い、金属のようなものに触れた感触があった。慌ててヘッドライトの光をそこへ向けてみると、そこには黄色いヘルメットがあった。恐らくは工藤先輩の……。どうして工藤先輩のヘルメットがこんなところに落ちているのだろう?僕は不審に思った。僕は足下に落ちているヘルメットを手に取って、「うわっ!」と、悲鳴をあげてそれまで手に持っていたヘルメットを放り投げた。何かぬめり気のある液体が手に付着したのだ。ライトを当てて自分の手を確認してみると、そこには何か赤黒いような感じのする液体が付着していた。……もしかすると、工藤先輩の血液?……まさか、ほんとうに工藤先輩は地底人、あるいは何かそれに類するものに襲われてしまったのだろうか?

 僕は数歩後ずさると、周囲を見回してみた。そこに何か怪しい人影や、生物が潜んでいる様子はないかどうか。でも、見たところ、そのような雰囲気は感じられなかった。ただ漆黒の暗闇が無言で僕のことを見つめ返してくるだけだ。……一体、何がどうなっているんだ、と、僕は思った。とにかく、ここから逃げよう。僕は思った。地下鉄の職員が待機しているところまで一旦引き返そう。その方がいい。僕は思った。もし、まだ工藤先輩がこのへんに隠れているとしたら、僕が勝手に帰ったりすると、怒るだろうなとは思ったけれど、でも、知るものかと僕は開き直った。ずっと隠れたままの工藤先輩がいけないのだ。

 僕は最初、早足で歩き、それから、我慢できなくなって走り出した。走れば、地下鉄の職員が待機している場所まで、十分もあれば辿り着けるはずだった。

 でも、不自然なことに、いくら走っても、その地下鉄の職員が待機している場所には辿り着けなかった。走りはじめてから十分以上が経過しても、いっこうに、地下鉄の職員が待機している場所、明るいライトの光は見えてこなかった。……おかしいな?僕は思った。でも、そう感じるのは、僕が焦っているせいなのかもしれないと思ったので、そのまま我慢して僕は走り続けた。

 でも、結局、それから五分以上走り続けても、やはり、状況に変化は訪れなかった。相変わらず、職員の待機場所の象徴ともでも言うべき、ライトの明るい光は見えてこなかった。……一体どうなっているんだ?僕は苦しくなってきて、ついに走るのをやめて立ち止まった。それから、荒い息をついた。ほとんど全速力に近い速度で走り続けていたので、肺が悲鳴をあげていた。汗がダラダラと流れていた。僕は手の甲で額の汗を拭うと、……一体どうなっているんだ?と僕はこれで何回目になるともなく思った。どうしてもとの場所に戻ることができないんだ、と、わけがわからなかった。職員が待機している場所まで戻るのにこんなに時間がかかるはずはなかった。もしかして、どこか途中で道を間違えてしまったのだろうか?でも、そんなはずはなかった。何故なら、僕たちが点検している線路は一本真っすぐに続いているだけで、途中に曲がり角や、その他の線路なんてどこにもなかったからだ。……何かが変だ、と、僕の恐れは深まった。

 そして、僕は周囲の空間を改めて見回してから、愕然とした。……なんだ、これは?と思った。

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