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わかりきったシナリオ

ヨーロッパでは、戦争がはじまったそうだが、特に私の生活には変わった様子がない。いつも通り、気の向くままに寝続け、なんとなく起きる。
起きる頃には太陽が上から射す。空気は少しオレンジがかっているように見え、時間がゆっくりと過ぎる。他の人も大体そんなものだろう、と漠然と思う。でも、テレビの液晶に流れるニュースは世界には穏やかに暮らせている人ばかりではないことを盲目な私たちにつきつける。

なぜ、戦争は起きるのだろうと考えるとき、私の頭の中にはもっともらしい論理でいっぱいだ。
論理は一見正しいように見える。誰もが納得できる結論である気がする。たとえば、「戦争になれば人が死ぬ、人が死ぬことは良くないことだから、平和が絶対善である」と言うものだ。
このロジックのまずいところは、はじめに「人がに死ぬことが絶対悪であること」への疑問が省略されていることだ。ほんとうにそうだろうか。
大抵の人は死ぬことを体験したことがない。
想像できないこと、わかりそうにないことを目の前にした時、人はそのことについての真理を「信じる」。この場合、死が明らかにその人にとってよくないことだと「信じる」ことの上にこの論理は成り立っている。

世に蔓延るほとんどの論理は、このようにある真実への「信仰」を潜在的に含み込んだ形で存在すると、わたしは「信じ」ている。
論理は一見本能的な、動物的なものから逸脱した、鉄筋コンクリートで作られているように見える。
都市は正にそれが体現されたものである。建築のイデアが、そこに投影されている。とても頑強であり、暴力的な自然に堂々と抗えているように思える。実際のところ、それは「信仰」の上に成り立った砂上の楼閣にすぎない。まぁそんなわけで、戦争を止めうるのは論理ではない気がしている。

というか、止めようがないんじゃないかとすら思う。

おそらく、戦争に向かっていった国民は歓びに満ちていたのではないか。戦争は、自分の中に強固につくりあげられた、論理という宗教の正しさを示す過程であるからだ。平和は、国民の感情が築き上げた論理によって破壊される。代わりに、私たちは荘厳な城を建てる。
そこには真理という時計がつけられており一つの動的実体として蠢く論理は自在に時間を操り、異空間を作りだす。
華々しい開戦のファンファーレが聞こえる。論理は私たちに宿命を与える。それはいわば聖戦だ。
感情は大きくうねり、論理を増幅する。
だが。戦争が始まって、私たちは気付くのである。都市を焼け野原にする焼夷弾、不沈とよばれた戦艦が海に沈む様、体を貫く鋼鉄の銃弾に。
ガラスの真理が粉々に砕ける音に。

私たちはものに目覚める。暴力的な、厳然として存在する、自然に。私たちを束ね上げていた、真理という時間、時計が跡形もなく破壊され、あるいは止まる。時計とともに、私たちが丹念につくりあげた城が陥落する。狂信からの転落、ふと私たちは地球に立っているが、それは重力によって、成り立つものだとわかる。私たちは、ものとしての、自然の一部としてのホモ・サピエンスに、戻る。

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