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2020.8.3 シュークリームと猫の眼

日が沈んで夜がやってくるまでの合間の時間、どうしようもなく胸がざわついて、身の置き場のない夜がやってきそうな予感がしたら、シュークリームをひとつ買っておくに限る。コンビニの一番安いもので構わないが、出来るだけクリームはずっしりと詰まっているものがいい。

私の予感は大体当たる。そんな夜は、自分の家なのにまるで他人の家にいるみたいで、私のいるべき隙間はどこにもないように思える。そういう時はひとまずデカい冷蔵庫の前に座ってリビングを見渡す。時々頭の上でゴトリと自動で作られた氷が転がる音がする。冷蔵庫から取り出したシュークリームを一口齧ると、部屋の隅の暗闇から猫がこちらを見ているような気がする。幼い頃、猫に見つめられながらシュークリームを食べたことがあるからだ。

豆腐屋、弁当屋、釣具屋、文房具屋、道を挟んで定食屋、その隣がうちの酒屋。それからその隣が床屋で、一番端はスナック。幼い頃、1階に商店が並んだ長屋の一角で、我が家は酒屋を営んでいた。商店街とは呼べないほどの小さな商店の並びであったが、そこでの日々の営みは、その時の私の接続できる大人の社会のほぼ全てであった。

長屋の裏口を出るとそこは舗装もされていない、土埃がたつ空き地と駐車場になっていて、小さな私の遊び場だった。2軒隣のスナックのママはよく、夕方になると店の裏口の石段に腰掛けてタバコを吸っていた。痩せていて、茶髪の長い髪をまとめることもなく、いつもピンクのパイピングの入ったellesseの白いジャージを着ていた。女の人にしてはずいぶん声が低いので、私は5歳くらいまで、ママのことを女の人の格好をした男の人だと思い込んでいた。そのことを母に言うと、一拍おいて母が大きな声で笑い出したのを今でも覚えている。

夜が近くなると、スナックの入り口のあたりで時々ママを見かけることがあった。ジャージから裾の長いドレスに着替え、ゆるく編み込まれた髪がまとめて左の肩に垂れていた。煙草を吸っている時の眉間の皺が、どこかに消え去ったみたいにきれいにお化粧をして微笑んでいる夜のママが、私はいつも少し怖かった。

小学校の低学年くらいのことだったと思う。裏の空き地で遊ぶ私にママが「シュークリームあるから、食べにおいで」と声を掛けてくれた。極度の人見知りだった私がどのように返答したのか定かではないが、店の裏口から入って長屋の急な階段を上り、ママは私を2階の自分の部屋に招待してくれた。

古い長屋の焦げ茶色の柱、黄土色の土壁。うちの酒屋と同じ間取りの見慣れた風景だったが、窓には白いレースのカーテンがかかっていて、畳の上には長い毛足の、大きくて白い絨毯がひかれていた。その上にはピンクのローテーブル。窓側に置かれた白いドレッサーは、鏡の周りがキラキラと色んな色の石のようなものでデコられていて、椅子も含めて脚の部分がくるりと回転して猫脚になっていた。なんだか女の子の部屋みたい。子供心にそう思った。促されて白い絨毯の上に座った私の膝に、ママは「もうおばあちゃん猫なんやけど」と言いながら奥の部屋から連れてきた猫をのせた。毛足の長い白い猫だった。温かな重みを感じながら、猫の背中を恐る恐る撫でたが、気に入らなかったのか猫はすぐに私の膝から離れ、部屋の隅に置いてある座布団の上で丸くなった。

ママが出してくれたシュークリームは、随分大きかった。分厚い皮の中にカスタードクリームが沢山詰まっていて、一口齧るとバニラの匂いが口の中に広がった。「美味しいか?」とママが聞くので、頷いた。だけどそれ以上、何を話していいか分からなくて、無言でシュークリームを食べ続けた。座布団の上の猫は来訪者を品定めするみたいにこちらを見ている。ママが煙草を吸い始め、煙を吐き出した後に言った。

「ゆりちゃん、甘いものを美味しそうに食べる女の子は幸せになれるんやで」

なんでママはそんなことを言ったのだろう。目の前の女の子に何か大事なことを伝えたくなったのかもしれない。もしくは私があまりにも真面目な顔でシュークリームを食べていたから、一言言いたくなったのかもしれない。その時の私は特に深く考えず、シュークリームを食べ続けた。何となく緊張していて、早く食べ終わってしまいたかったのだと思う。途中、履いているスカートの上に、ボタリと落としたカスタードクリームの塊を、ママがティッシュで拭いてくれた。深い赤に塗られたママの指の爪は、近くで見ると先が少しはげていた。私のスカートには白い毛が沢山ついていたが、それは今座っている絨毯のものなのか、さっき抱いた猫のものなのか分からなかった。

もう30年近くも前の話だから、あのおばあちゃん猫はとっくに死んでいるだろう。ママは元気だといいんだけど。ママの思う幸せな女の子は、どんな顔でシュークリームを食べた?私はすっかり女の子と言えない年になったが、冷蔵庫の前に座って、相変わらず分厚い皮のシュークリームを齧っている。

この夜を抜けたら、私は冷えた床の上で律儀に並ぶ足の爪を、派手な色に塗るだろう。大丈夫、苦い夜に舐めるカスタードクリームは痺れるほどに甘いから、私の今日はちゃんと寂しい。


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