言語獲得における生得主義と経験主義からの考察

1973年、バラススキナーに師事したハーバートテラスはチンパンジーに対して手話の教育を行った。
この教育を通して、テラスは「類人猿は文を創るのか」という論文を発表し、チンパンジーは、複数の語を組み合わした文章に対して、語が多くなるほど単純な要素の繰り返しになるだけで複雑な内容の作成に至らないと著した。
例えば、2語なら、「play soccer」であるが、これを4語に増やした場合でも、「play soccer play soccer」と繰り返しになってしまう具合である。

どれだけ時間をかけようと類人猿に言語を獲得させることは難しかった。
これに対し、人間の子供は自然に、そして急速に言語を獲得する。一体なぜなのか。
言語獲得に関して生まれを重視する立場を生得主義と呼び、対して、育ちの側面を重視する立場を経験主義と呼ぶ。20世紀中頃までは経験主義の立場が多く支持されていた。しかし、チョムスキーにより、生得主義の支持も増えていった。この対立する二つの立場について考察していく。

生得主義の立場から

「言語獲得が生得的か」とは少し大雑把な題であるため、先程のチンパンジーの教育に対して示された結果から、「ヒトの記述文法の知識が教育の産物であるか」という題に改める。
それは、チンパンジーが複数の語を扱う場面、即ち、記述文法の扱いが困難であるのに対し、それを扱えるヒトは、何故なのかと考えられるからである。記述文法の規則には経験的に獲得したとは言い難いものが多く含まれている。
一例を挙げると、

Who did you see John and?

この英文はどうだろうか。"あなたはジョンと、それから誰を見たのか?"と訳したくなる。しかし、文法の規則上これは許されていない。
正しくは"Who did you see John with?"である。
理解はできるが文法上間違っているこの現象を哲学者であるジョージレイは「whyNots」と呼ぶ。このように、誰も使おうとしない文型にも関わらず、理解できてしまうことに経験では説明のつかない理由とされているのだ。
そして、我々ヒトには文法を獲得するための文法獲得装置(普遍文法)が生得的に備わっていると考えられている。
この普遍文法を基軸として、母語を肉付けしていく形で獲得すると言われている。
しかし、バイリンガルなどの例にどう説明付ければいいかなど、多くの疑問が残されている。

経験主義的立場の哲学者の中にははヒトの言語能力は一種のオペランド条件付けによって獲得されたものだと主張する者もいる。
例えば、ある子供が「本で読む」と言った時、それは間違った文法であるため、当然周囲からは否定的な反応が返ってくる。そして「本を読む」と言い換えると、周囲から正しい反応が返ってくる。このことが報酬となり、「本"を"読む」が正しい文法だと知り、身につけていく。このようにアウトプットとしての発言に対するリスポンスとしての報酬の連続によって言語獲得が行われるという具合である。
しかし、我々の言語行動にはそれまで使ったことのない文の発話が含まれ、聞いたことのない文であっても理解できる。(次田 3-1-1)
ここでスキナーは、すでに学習した分構造の一部を違う単語に置き換えて発言し、その反応によってオペランド条件付けを満たした言語獲得を行うことは出来るのではないか、と考える。しかし、分構造の一部を置き換えることで本質的な意味が変わってしまうケースもあり得る。

例えば、とあるオネエタレントが「寿司を食べるわ〜」と発言したとする。この「◯◯を食べるわ〜」の◯◯を置き換えてみる。
「この子を食べるわ〜」だと違う意味になってしまう、といった具合である。(極端過ぎる例ではあるが)
チョムスキーはこうした違いがオペランド条件付けによって説明出来るとは言い難いとしている。

かと言って経験主義の立場を否定することは難しい。それは悪魔の証明に近いことだが、現在の脳科学心理学の知見からでは人間にどれほど高度な学習能力が秘められているのかを証明することが難しいからである。

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