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《夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ》妄解のつづきのつづき

 

 歌とは声に出すものであるはずだ。
 しかしそれにしても、この晶子のうたは声に出したとして、というか、だれかが声にだしたとして、それを耳で聞き、内容を理解できるようなものなのであろうか。
 それはわたしが、このうたの内容を、十数年の時を経てようやく少しは解る、と思ったことからも、愚問である。まあ、迂闊な歌読みであるわたしがわたしにする阿呆な自問自答と聞いてくれたまえ。
 それに、われわれの人生の経験から言っても、歌というものは、短歌にかぎらず、なぜか知ら覚えてしまっていて、ある時に思わず口を突き、ふとしてその意味が知れてくるものではなかったか。
 すなわち、歌の受容とは、まず音や韻律からからだにしみこまされて、訳知らず記憶してしまうもののなかから、やがて……というようなものだと思うのである。
 というか、歌を記憶している人間というものは異様な存在で、突然歌い出す人間が驚かれるように、歌人であるわたしは、人との会話のなかで思わず歌を引用してしまうことがあるが、どこか時間が止まったような、その歌を聞き取らねばならないという感じが生まれてしまうことに、じぶんで仕掛けておきながら、窮屈な思いになることがある。
 歌というものが、ふだん使っている言葉と異なるものであることを実感するのは、そういう時で、なにか別なものが挿し込まれたという感覚は抜きがたい。 

  夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ

 この歌は一読、なにを言っているのかわからない。だがしかし、なにか言い知れぬ感じ、魅力の断片のようなものをもたらすかもしれない。
 いまこう読んではじめて気づくのだが、中句の六音がまるで鏡合わせのようになっているような気もする。そのような時、やはり帳は「ちょう」ではなく、「とばり」と訓みたい。七七六七七のシンメトリーの世界。ルビなど紙に書いたときに消えるのであり、わたしたちはつねに韻律からその声を聞き取らねばならない。
 天界の睦言と下界の些末事とが、一首のなかで、ぎゅっと一つにさせられているのが、この歌の魔法であり、そこにこそ歌の魅惑があるとまずは言ってよい。他の詳しい意味は解らずとも、とにかくここには歌のなかに捕えられた大きな世界があって、それが晶子の手柄であり、口ずさむわたしの喜びに通ずる。
 そういう無茶を支えているのが、「星の今を」という過剰な力を込められた中句であり、われわれが日ごろ用いる言葉とちょっと外れているほどの、滅茶な責任を負わされているこの六音の中句が、立派であり、なんとも言えず愛おしい。死なんばかりの責務を負っていよいよの、言葉が活きているという感じがしてこないか。
 いや、わたしはまた、熟読者のように書いてしまった。
 わたしがきょう書こうと思ったのは、袖からとりだした袖珍本歌集『みだれ髪』を読もうと木陰で、はじめてこの巻頭一首を口にした時の婦女子の反応についてである。
 もしそのそばに妹でもいれば、「どういうこと?」とでも訊かれそうなこの歌ではあるが、『みだれ髪』が、姉妹で声に出して読まれることを考えるのは難しい。
 娘はひとりこの歌をみずからの胸に響かせてなにを思ったことだろう。
 わたしだったら読み飛ばして次の歌を読む。

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