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《夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ》妄解つづき

 きのう書いていろいろと書きそびれたと思ったことがあることに気づいた。
 というか、書きながら、どうにかまとめようとして、どうしても思ったことを書ききれず終らざるをえなかったのだが、とにかくこうでもしないと物は書き続けられないのかもしれない。ま、久しぶりに文章を書くのだから、こんな具合でゆっくり始めさせてもらおう。
 わたしが晶子の歌について書くことによって、考えようと思ったのは、凝縮された短歌の表現のことなのである。
 晶子の歌《夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ》は、ふつうの話し言葉や書き言葉、散文、もっと言えば短歌の表現を超えるくらい、異様に意味が凝縮されているような気がするのだ。
 それは、作者すら解っていないほどまで、と言いたいほどである。
 表現したいことが微妙を極め、迂回を余儀なくされ、しかも溢れでる言葉が詰め込まれることにより、短歌はある飽和状態に達し、作者のあずかり知らぬ点で結晶化してしまうことがある。作者にすら意味が取れないほど複雑化しているのに、どの一語も搖るがすことができない一首が、できてしまうのだ。
 定型の恩寵と言う者もいよう。しかし恐るべき自動化でもあろう。短歌には、そういうじぶんが決して思っていないことを歌わせる力があることは、重々気をつけておかねばならぬ。短歌のみならず、歌とはそもそういうものかもしれぬということを、考えよ。
 作者自身がみずからの歌の意味がわからず、その不格好な姿を恥ずかしがって、すっかりあらためてしまうことは少なくない。そののちの改作では、〈ささめき盡きし〉が〈ささめきあまき〉となっているのみならず、さらに昭和四年の新潮文庫第十六編『晶子短歌全集』では、作者自身により次のように直されているのに、唖然とした人は少なくない筈。

  夜の帳【ちやう】にささめきあまき星も居ん下界【げかい】の人は物をこそ思へ

 なるほど、これではたとえ著者がルビによって「ちょう」と訓ませたところで、夜空であるのは紛れもなく、そこに浮かぶ静かなる星々にも、密やかに甘きふたり話をするものがあろう、な、という意味にしか取れず、言い様によっては、すっきりとした改作ではある。しかし理が勝ちすぎ、この歌の魅力は言い知れぬほど失せ、説教臭ささえ立つのはいかんともしがたい。〈あまき〉にしたのみの早期の改作も同断であろう。
 これは作者が、おびただしい誤解の波紋を呼ぶことになった歌の息の根をみずから止めてみせることであったかもしれない。
 正直に言ってわたしは、昨日立ち仕事をしながらこの歌の匿された内容にはたと膝を打って気がつき、これほどまでに官能的なうたを自身の第一歌集冒頭に飾った晶子の勇気に、くらくらと眩暈がするほど感動したのだった。

 先日たまたま友人の本棚を整理したとき、なつかしい永畑道子さんの、その御著書に『鉄幹と晶子 詩の革命』(ちくま文庫、一九九六年)があるのを発見し知り、貸してもらった。
 わたしはきのう書いたじぶんの読みに自信があったから、他の人がどう読んでいるのかが知りたくなって、失礼ながら早速この歌を探してその左に書いている文章を読んだ。

 夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢【びん】のほつれよ
星の子である師に、すべてを許してさざめき愛して、その天上の星が、いまは世塵にまみれて自分とおなじ下界のひととしてすぐ傍らにいる、鬢のほつれをみせる男のあわれを、晶子は、わかりにくい一首にこめた。複雑ではかり知れぬ男の気持ちだが、それはもう天にきらめく星ではない。自分の手中にあるひとりの男、なやみを隠すこともできぬ男にすぎないのだ。

 いかがであろうか。ちなみに「帳」にルビはない。
 ちょっとぶっ飛ぶような読みではないだろうか。わたしは「えっ。そうなんだ……」と思っちゃった。そう、思っちゃったのである。
 晶子の恋人であり、彼女に短歌の才能を開花させた師でもある歌人・鉄幹、「明星」の主宰でありアイドルであるこの男が、いまはわたしと夜の帳を同じうするとゆーうたなのか。このうたは。
 しかもわたしが「流れ星」にまでなぞらえてみせた鬢のほつれは、晶子のものではなく、まさかの鉄幹のものだということになっているではないか。わたしはすぐGoogleで「鬢」を検索したが、この時代の男って、鬢なんか結っていたのかねえ(鉄幹の写真もググッたが 短髪七三でこっぱちの写真しか出ぬ)。だいたい、鉄幹がたとえ髪を結っていたとして、どーせ髪なんかいつもほつれていたんじゃないか。それを結ってやっていたのが前妻で、その不手際が見苦しいという歌だとすれば、うたいざまが醜いではないか。
 愛する人をまえにして、準備万端完璧に整えたはずの髪の、まさかのほつれは、やはり愛恋の極まりの不手際であり、女にこそふさわしい。それを天界からわざとじぶんが気づかせてやったようにする歌いぶりは、思わず身を任せたくなるほどの見事さだ。
 しかしそれにしても、わたしがすごいと思うのが、これほどまでに読みが違うのか、ということなのである。
 まさに鉄幹・晶子論一巻を書きおおせる、その中腹、二一五頁での永畑道子さんのこの批評には、然るべき力がかけられている。また、そう読めるようでもあるのは確かにそうで、特に、夜の帳のなかに、その外界であり天界に在所があろう「星の子」鉄幹を奪い取り、みずからのものにしたかの読みはさすがであり、わたしには思いつかなかった。その読みは的外れなものではないと思う。
 〈複雑ではかり知れぬ男の気持ちだが、それはもう天にきらめく星ではない。自分の手中にあるひとりの男、なやみを隠すこともできぬ男にすぎないのだ〉という言葉が切ない。男はわたしという女によって真の熾烈な恋を知り、いよいよ下界に眼を向けねばならぬということなのである。

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