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與謝野晶子《夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ》妄解




                與謝野晶子
 夜の帳【ちやう】にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢【びん】のほつれよ

                  

 きょう労働しながらふとこの歌が口を突いてきた。與謝野晶子の第一歌集『みだれ髪』の巻頭一首であり、それなりに有名な短歌のはずだが、どうもなにを言っているのかわからないということでも有名で、わたしもじつは特に意味を考えず覚えている歌の一つである。しかも始末の悪いことに、それにもかかわらずいい歌だと思っている。歌人というのは、他の人はどうか知らないが、ろくに意味を知らずにいい歌だと思いつづけることがあって手がつけられない。
 いつものように、思い出してしまった歌を何度も口のなかで転がし、文字遣いや漢字表記などの細部を思い出そうとして、気づいたのは、殆どよく覚えていたことで、敢えて調べたいほどの異同は、「人」が「ひと」だったかと、「帳」にルビがあったかくらいだった。

 このうた、一読して意味がわかるうたでしょうか、一つ考えて欲しいと思うのですが、きょうふと、あっ、これってこういうことなのかと思ったことを書いていきます。
 まず夜の帳【ちやう】ということばが気になります。「夜のとばり」と訓めば、夜の闇に包まれるということですが、作者はそう読まれることを避けて、ルビにより帳を「ちょう」と訓ませています。このように慣用句をほんの少しの訓みの差異で異なるものにしてしまって、夜中の室内に垂れ下げた布のでありつつも、いまがまさに夜の闇に包まれてあることをあたかも二重に伝えてくるようで斬新な歌い出しと言いたいところです。
 ささめく、というのは声をひそめて語すことですから、いかにも夜の、帳のしたでするにふさわしいことのいくつかの一つです。そしてふつう話すというのなら相手がいましょう。それが「盡きし」というのですから、言葉など要らぬくらい楽しいこと、あるいは言葉にすることもできない高ぶりのしじまがここに省略されてあるのです。
 このうたの最もつまずきやすいのが、中句の「星の今を」の字余りだと思いますが、ここまで読んでみて、この思わず早口になる中句の字余りが、まるで映画のカットインのように作用して、急に星空に飛ばされるのが、驚かれるのかもしれません。
 夜のとばりのなかでふたりの私語は尽き、先刻と打って変って、この閉ざされた空間は、宇宙でぽつんと星のように静かです。これは、なにかが始るまえの静けさなのか、それともなにかが終った後の静けさなのかは、なんとも言えないところですが、どちらのほうがよろしいかのヒントは一首のなかにあるはず。
 下界の人の鬢のほつれよ、ですか。下界、と来ましたか。まるで別の星から、この地上の娘を見下ろしているようですね。この信じられないほどの突如とした上昇、そして急激な落下と、そのフォーカスの絞りの精密さ。一首のなかに、凝縮と省略をこれほどまでに結晶させながら、しかも恋心が昇り詰めた後のしいんとした感じを、まるで物でも扱うように歌い出してどこか恬としている様子なのが、たまらないと思いませんか。
 しかもおそらくは、ともに雲を抜け、天界を語り合ったふたりの、その女のほうは、それでも天ばかり見ようとする男の視線を引こうと、流れ星でも指さすようにみずからの鬢のほつれに気づかせる。下界の人の鬢のほつれよ、とまるで他人事めかして言うその鬢は、まさにおのれの髪に他なりません。
 まるで一場の夢めくこの一首は、何度も読むにつれどうしても帳が蝶に変るようで、歌の読みはますます盡きない思いがします。孤り蝶に語りかける人の姿も見えてくるようです。いかがでしょうか……。

 つまらない読みのように思われるかもしれませんが、この歌に出会ってもう十何年にはなりましょうか、やっと少しはまともに歌の意味に触れ得たような気がして、はたと膝を打ったことを書いてみたのです。

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