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新川と伊藤五郎左衛門

 私たちは、新潟市西区内野にある新川と西川が流れる川と川の立体交差について調べました。


新川とは

 伊藤五郎左衛門らによって提案され、1818年に工事を開始し1820年に開通した、人工の川です。

1.三潟の水害問題

 信濃川の下流に三潟地方(鎧潟、田潟、大潟など大小多数の湖沼が散在している低湿地帯)がありました。土地が低く、川の水が溜まりやすいため、常に水が溢れていました。お米を作るにも田んぼ用の下駄や船が必要であり、豊作を得ることが難し状況でした。さらに、大雨が降ると悪水が排出されず、辺りは水浸しとなり、農民は大きな被害を被っていました。三潟地方では、昔からこの悪水に対する様々な対策を行ってきましたが、根本的な解決には至りませんでした。そこで、伊藤五郎左衛門がこの問題に取り組んだことが知られています。

2.伊藤五郎左衛門の提案

 伊藤五郎左衛門が13歳の時(1790年)養父が中野小屋組の割元役を任命され、彼は中野小屋村の割元屋敷に移り住みます。この頃には、毎年水害に苦しむ農民のために、悪水抜き掘割工事の基礎的研究を始めていました。そして、13年後には伊藤五郎左衛門は、内野村境の五十嵐浜村(現在の新潟市五十嵐)地内の金蔵坂を掘り割り、悪水を大潟から五十嵐浜へ放流する排水計画の測量作業を終えていました。

 伊藤五郎左衛門は29歳の若さでその優れた能力が認められ、低温地三潟周辺の村々を支配する大役を任されていました。文化年4と5年は2年連続で大水害が起こり、農民たちの状況は極めて悲惨なものでした。多くの難渋者が出て、困窮の果てに出稼ぎに出る者が続出し、三潟地方の人々の苦悩は深まる一方であった、この時、伊藤五郎左衛門はいろいろと手配して何人もの離郷者を呼び戻し、荒れ地を開墾させることで成果を上げました。

3.工事開始までの問題

 1812年5月、伊藤五郎左衛門は前田平内と中野清左衛門という2人の先輩割元を訪ねて、彼らを説得し3人連署で自普請による「三縁(べり)古田悪水抜掘割工事願」を長岡藩に提出しました。藩では、このような前代未聞の大規模工事を行うには、「もっと大きな組織でなければ話にならん」と即座に却下されてしまいます。そこで伊藤五郎左衛門は、多くの署名を集めて十七願人の連印をもって工事願を再提出するまでにこぎつけます。そして、文化10年5月、再度願書を長岡藩に提出するも、再び却下されました。理由はこの問題は当藩だけではまだ力が弱いため近くの藩と話し合いをするべきだということでした。結果として、伊藤五郎左衛門は本請願の総責任者となり、工事願は長岡藩を経由して幕府に正式に提出されました。しかし、幕府からの返答は年末まで一切なく、その理由は新潟港が反対していたからでした。

新潟港が掘割工事に反対するには下記の理由がありました。

当時より八十六年前の享保十五年(一七三〇)のことである。福島潟の悪水に悩まされていた新発田藩は、水を阿賀野川から日本海へ放流するために、松ヶ崎に掘割を造ることを計画した。この時新潟側は、港の障りになると絶対反対を表明したが、新発田藩は幕府に猛運動したため、幕府は新潟側を押し切ったのである。幕府は、万一掘割が破損した時は責任をもって原形に復旧させる、掘割には小舟といえども一切出入りさせぬ、などを内容とした契約書を、新潟、新発田双方に取り交わさせて工事を強行させたのであった。ところが運悪く、翌年春の雪解け水による洪水が特別激しかったため、掘割は押し流されて阿賀野川は河口を松ヶ崎に変えてしまった。とたんに新潟には阿賀の水が来なくなり、年々港は浅くなった。このため、大型船が入港できなくなった新潟港側は、長く臍(ほぞ)をかむ思いをしたのである。幕府は復興に種々手を尽くしたが、当時の技術ではどうにも対処の方法がなく、新潟には天災とあきらめてもらうより仕方がない、ということになった。そこで幕府の役人は、新潟側を納得させるために、これ以後新潟港の上下(かみしも)十里(約四十キロ)の間には、掘割を絶対造らせぬことにする、と約束した。以来新潟側は、この言質(ことじち)を武器に、三潟の堀割願が出されるたびに反対し、握りつぶしてきたのであった。こうした経緯から、長岡藩重役の説得に対して、新潟側は執ような反対を繰り返していたが、重ねての申し入れにさすがの新潟側も折れ、納得せざるを得なかった。これは、藩から直ちに幕府に伝達されたため、幕府は文化十三年六月から七月にかけて、支配御勘定・田村林右衛門、御普請役・森谷為助、同・川奈猪太郎、同・田村七五郎の四人を派遣、三潟の掘割子定地調査に乗り出した。文化十三年も暮れて十四年の春になった。だが、工事の許可は依然として出されなかった。新潟港が最後まで抵抗したからであろうが、願人たちの眉には焦りの色が濃くなっていった。だが、やがて十四年も終わりに近くなった十一月二十九日、長岡藩江戸留守居役に幕府から呼び出しがあり、三湯掘割を願いの通り許可する旨が伝達された。

新潟県人物群像 4興

このように、様々な問題がありまいたが、自己負担という形で無事工事を開始することができました。

4.立体交差の完成まで

 新川と西川の立体交差は、西川の大潟寄りに迂回路を掘り、西川の流れを通して旧西川の底を掘り、長岡樋と村上樋という二本の木製樋管を伏設し、その上に3尺(約0.9m)ほどの土を盛り上げて、そこを西川の底にします。大潟から新川の水は西川底の樋管を通して渚口へ流し、海に放流する計画でした。この底樋は、樋管(ひかん)大工という専門の大工が作製に当たりました。その寸法は、高さ4尺(約1.2m)、幅3尺(約0.9m)で、中間に柱2本を立てて補強されています。また、樋の長さは西川の幅に両堤を加えた約42間(約76m)に及びます。

 しかし、工事中に悪天候の問題が発生し、伊藤五郎左衛門らは藩主に何度も困難を報告し、再普請費用として3600両の借用方を嘆願しました。その結果、同年4月上旬にようやく500両の融資を受けることができ、なんとか再普請にかかることができたが工事は意外にも難航しました。そのため、5月から9月の間に毎月借金をして、12月までに合計4500両の費用を注ぎ込み、新川の川幅十間(約18m)、両岸の江丸10間(約18m)ずつ、合計30間(約54m)が完全修復されました。

 そして文政三年(1820年)1月の新川が開通した後、長岡藩は積極的に開拓を奨励し、三潟地方の水腐田は総面積238町歩の美田に生まれ変わりました。技術未発達であった江戸時代において、伊藤五郎左衛門は前代未聞の大規模土木工事を完成させ、治水救民に多大な成果を上げました。この偉業は、150年を経た今日になってもその輝きを失うことなく、本県史上で高く評価されています。

まとめ

 はじめは、新川と西川の立体交差についてほとんど知らず、新川の上に西川を作ったのかと思っていましたが、調べて行くうちに新川は、人の手によって人工的に掘って作られていたと知ってとても驚きました。
 また、資料には伊藤五郎左衛門や庄屋たちが、役所からお金を借りるだけでなく自分たちの財産を売ってお金を集めていたということも書いてあり、たくさんの人たちの努力と苦ろうがあったからこそ、新川をつくることができたということを知り、この人たちのおかげで現在の私たちは、昔のような水害には悩まされずに過ごせるのだなと感じました。そして、このことをたくさんの人に知ってもらいたいと思いました。

参考資料

新潟市歴史博物館みなとぴあ にいがたの人物伝
『三潟水抜きの父 伊藤五郎左衛門』

https://www.nchm.jp/?p=2961

『新潟県人物群像4』1988 山下隆吉

取材場所

新川・西川立体交差
新潟県新潟市西区内野戸中才1472-30

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