有楽哲学 同道巡り編
1.あいさつ
お久しぶりです。有楽悠です。
最近はずっと哲学の中でも主に形而上学みたいな解釈哲学ではなく、主に正統倫理学的、一般的に思想家という単語でまとめられそうな領域についての思想をまとめ続けておりまして、完成した暁にはこちらで発表させていただこうと思っていたのですが、特に現在はその思想がずっと空転し続けておりまして、このまま何もせず、実質的には進んですらもいないという状況でい続けるのは私の精神衛生上もあまりよろしくないのではと思いまして、到頭にも滔々と唐突に日記をつけて無理矢理にでも思想を新たな段階に押し進めようという計画に至りました。
2.循環
堂々巡りには僧侶が祈願のために何度もお堂の周りを巡ることから来ているそうです。ですが、私は生憎僧では無い者でございまして、堂を巡ることなどありませんから、同じ道をずっと歩き続けているという同音同意異語源語に変換させていただきました。ローティ先生の言語論的転回とは全く関係はありませんが、やはり哲学を考える上で出来ることは全てやっておいてインスピレーションの受け皿を開けておくというのは個人的に重要なことだと思っておりまして、私はもし自分のウィキペディアに『影響を受けた人物』の欄を制定するとしたら躊躇いなく『全人類』、『影響を受けた生物』欄を制定するなら『全生物』、『影響を受けた存在』欄ならば『全存在』と書かせていただきたい程に、専門家だとか門外漢だとかということには拘らず雑食思想を展開させていただいております。
その中でも最近特に腰を据えている課題がありまして。それが『無痛文明論』で御座います。
3.痛みは慣れろと良く謂われるが
ここで無痛文明論について詳しく触れ、そのルーツである森岡正博先生について称える文章を書こうという所存ではございません。そうして一人一人私に影響を与えた人間についての謝辞を述べようとすれば先ほども言ったようにそれだけで人類史を、否、言語では表せ得ない全てのモノをも網羅してしまうものですから。しかしまぁ、概略程度ならということで私が語れるのは『身体が望む安心快楽と精神が望む苦痛快楽』の対立というテーゼでしょうか。それが森岡正博先生の言いたいことかどうかは置いて置いておいて、現在私が捉えている無痛文明論はそれで一旦切ります。そしてもう一つの概念が『歴史の過剰』
4.一者から溢れ出た歴史が溢れ出る
現代では我々はいつでも歴史に触れることができます。歴史が繰り返されるのは必然であり、我々が起こす行動は全て歴史の反復である。無意識であろうが意識であろうが既に我々には歴史が刷り込まれており、絶え間なくその意識が歴史を未来に於いて反復します。我々の認識する『現在歴史』は既に我々の知る『歴史一般』から離反を始め、相互に影響を及ぼしながら相互の影響を予測し続けています。
反復=差異と同一性。安心=慣れと苦痛というところで私は現在ドゥルーズを読みながら趣味でモンテ・クリスト伯、スラヴォイ・ジジェクを読ませていただいております。
12月2日の私はさほど元気とは言えないならも生命を保っております。
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