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宇宙工学者の僕が、なんでエッセイなんか書くのか [久保勇貴]

野球は10年間も続けたけれど、別に好きではなかった。惰性で生きるのが得意だ。

はじめは、兄ちゃんの野球の試合に付いていって友達と遊ぶのが好きだったのだけれど、そのうちその友達が試合に来なくなって暇になったので、とりあえず「野球やりた~い」と父ちゃん母ちゃんに頼んだのだった。野球がやりたかったというか、単純にヒマだったんだと思う。そうしてそのまま、高校3年の最後の夏まで惰性で10年間続けた。

グローブにもバットにもスパイクにもたくさんお金をかけてもらったけれど、もちろん一生懸命練習は頑張ったけれど、惰性ではあった。友達とわいわい体を動かすのは好きだったけれど、プロ野球の結果なんか一度も興味を持ったことがなかった。阪神が勝ったとか負けたとか、どちらでもよかった。中学校では吹奏楽部が少し気になっていたのだけれど、部員の9割が女子の部活にいきなり飛び込む勇気はなかった。だから、惰性で野球を続けた。

「はやぶさ2、52億キロメートルの遥かな旅路!」
みたいなタイトルのネット記事を見て、先生が「いや、こんなの惰性じゃん」とつぶやいたことがあった。漆黒を翔けるはやぶさ2のCG画像と、めちゃくちゃ白けた先生の顔のコントラストが鮮やかだった。確かに、宇宙機もほとんど惰性だ。

地上からロケットで打ち上げるときは凄まじいエネルギーで勇ましく宇宙へ飛び立つけれど、いざ宇宙空間へ飛び去ってしまえば、宇宙機はほとんど惰性で飛ぶ。抵抗になるような空気も何も周りにないので、天体にぶつかったりしない限りはただ放っておくだけでどこまでも遠くへ行けるのだ。いわゆる慣性の法則というやつ。だから、惰性で○○億キロメートル飛んだ!なんて話は実は宇宙ではあんまり自慢話にはならない。

というか、そもそも僕らの住む地球だってずっと惰性で飛んでいる。時速11万キロメートルというものすごいスピードで、太陽の周りを惰性で飛んでいる。28歳の僕は、この28年間で270億キロメートル以上、太陽の周りを飛んでいることになる。僕は、僕たちは、惰性でどこまでも飛んでいく。飛んでいけてしまう。全然自慢にはならないけれど、僕たちは惰性でも生きられてしまう。

ニュートンの法則によると、質量が重いものほど慣性は大きくなる。だから、大人になればなるほど、僕らは惰性で生きてしまう。そういうことが、最近増えた。大して映画も観ないのにNetflixに入り続けたり、別にこだわりもないのに同じユニクロの白シャツを買い続けたり、あんまり仕組みを分かっていないのにつみたてNISAを積み立て続けたり。

研究だって、そうかもしれない。本当は宇宙飛行士になりたくて東大の航空宇宙工学科に入ったものの、大学でいくら勉強しても宇宙飛行士になれる道なんか全く開かれてはいなくて、結局13年ぶりの宇宙飛行士選抜も序盤であっさり不合格を食らってしまって、そんなこんなで博士号を取った今も宇宙工学を研究している。楽しく研究はしているけれど、どこか慣性に身を委ねたまま進んでいるようなところがあって、やっぱり僕は惰性で生きるのが得意だ。

惰性で生きるのが得意な僕は、本当はずっと表現がしたかった。自分の内側にある思いを、人に思い切りぶつけたかった。ひたむきに白球を追いかける姿で感動を与えるのではなく、自分が自分の意志で生み出したもので感動を与えたかった。だから、吹奏楽で演奏表現をやってみたかったのだけれど、女子軍団の中に飛び込む勇気なんてなかったから、結局惰性で野球を続けた。

自分がやりたいことよりも、人から求められることをやってきた。野球チームから、クラスメイトから、友人から、家族から求められることを、僕はなんとなく続けた。僕はいつもそうだった。いつもそうやって惰性だった。

だけど、エッセイを書くことだけは違った。エッセイは、自分が自分の意志で書き始めたものだった。初めてブログを書いたのが、ちょうど6年前だった。誰に頼まれるわけでもなく、ただ自分の表現がしたくてひっそりと書き始めた。

2017年から書いているブログ

書くことは、基本的に苦しかった。吐き出したい感情はどんどん自分の身体を通り過ぎていくのに、作品のアイディアは何時間考えても浮かばなかった。早朝まで書き続けて、結局書き上げられず、倒れるように眠りにつくことが何度もあった。

表現をするということは恥を晒すことでもあった。思い出したくもない黒歴史みたいなものに目を向けて、当時のつらい感情を何度も反復することでもあった。感情を人にリアルに伝えるためには、まず誰よりも自分がその感情に溺れなければいけなかった。それが苦しくて、パソコンの前でうな垂れる日が何度もあった。

ある作品の構成メモ。何時間も頭をひねりながら構成を練る。アイディアが形になるまでは、基本的にずっと苦しい。

そうやって、毎回毎回苦しんで生み出した渾身の作品には、「いいね」が数件だけパラパラと付いた。今回こそは世界を変えられるかもしれないぞ!と自信満々で生み出した作品は、一度も世界を変えられなかった。僕の作品は、決してバズらなかった。だからいつでも辞めることができた。辞めても誰も困らなかった。

そうやって誰に求められたわけでもないのに細々と書き続けて、3年ぐらいやった後で、ウェブ連載の話をもらった。相変わらず僕の作品がバズることは一度もなかったけれど、書いた。宇宙の話を書きながら、宇宙っぽくないことを表現した。科学を分かりやすく書くことは僕じゃなくてもできるから、僕にしか書けない生きた感情を書いた。

そうしてさらに3年間連載を続けて、ついにこの3月、出版社から本が出ることになった。

惰性ではなかった。自分の意志だった。中学生の頃、惰性のせいでできなかった自己表現を、ようやく自分でできるようになった。だから夢中で書いた。いつでも辞められたけど、辞めても誰も困らないけど、絶対に辞めたくなかった。そういう気持ちを何層にも積み重ねてから、ギュッと凝縮してこの本はできた。

だけど、この本は決して「すごい人」が書いた本ではない。俗世離れしたマッドサイエンティストが書いたものではない。だって、僕だって惰性で生きるのは大の得意技だ。ゴミ出しを惰性でサボって、確定申告を惰性で引き延ばして、お昼は惰性でパスタばっかり食べる、そういう人間だ。

だから、もし今あなたも毎日を惰性で生きてしまうことがあるなら、この本はあなたに寄り添えると思う。あなたが惰性で生きてしまうことを受け入れながら、隣で一緒に体育座りしてあげられると思う。直接背中を押してあげることはできないけれど、少しだけ目線を上げて、二人で宇宙をのぞくことはできると思う。

この本には、宇宙や科学の話が書かれている。と同時に、僕のどうしようもない日常や、なんだか可笑しな体験が書かれている。壮大な宇宙の話をしていたと思ったら、次の段落では地面を這いつくばるような日々のことが書かれていたりする。だから、宇宙好きな人もそうでない人も楽しめると思う。

いくつか試し読みもできるので、チラッと覗いてみてほしい。


もし興味を持ってもらえたら、また本の中でお会いしましょうね。


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