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2024/05/25

1.小説を書いた。意外に書ける、と思ったのが最初で、全く書けていないと思ったのがその次、そして書き終わった今、もっと書けたはずだと思っている。つまり、書けなかったことがたくさんある。紙にインクを染みつかせてみて、ようやく分かった。

2.エッセイ以外の表現方法を模索し始めたのは、「自分の生活に近すぎる」というエッセイ特有の限界と、「自分自身の人生を書きたいわけではなくなった」という個人的事情からだった。新しい表現への試みを今やれて良かったと思う。機会を与えてくれ、かつ粘り強く向き合ってくれた編集の方には本当に頭が上がらない。あと1、2冊出した後では、踏み出すのが難しい/踏み出せたとしてもより厳しい一歩になるだろう。自分の力量を認識するということは、正しく打ちのめされるということでもある。ならば、取り返しのつく時期に打ちのめされた方がいい。

3.離人感、と気安く言っていいのか分からないが、俯瞰的に物事を見ようとする癖がある。ノンフィクションの形式では、文章の裏に生身の人間がいるという前提が読者と共有されているので、その俯瞰的な視点が結果的に読者と良い距離感を生んでいたように思う。フィクションでは、その生身の人間の存在に頼れないので、冒頭から俯瞰的な描写が連続すると身体性を著しく損なってしまう。この効果を甘く見ていた。

4.傷痕(爪痕と言うべきか)を残す、という意味では悪くない試みではあった。上手くまとまってはいるが何の傷も付けられなかった/負えなかった、という方が何も得られないと思った。Elaborateな表現に取り組むというのが今回の試みの一つだった。自分にしか書けないものを書かないのならば、意味がないと思ったからだった。ただし、果たせた機能は非常に限定的だった。

5.もう一つの試みは、視点に対してだった。そもそもが小説という表現に親しんできたわけではないから、納得のいかない視点の取り方は排除するべきだと思った。「小説とはそういうものだから」と納得したふりをして、手に馴染んでいない道具を使うことは避けたかった。一人称の視点とは何か、これは語りなのか、独白なのか、誰がどの瞬間に書いているのか、作者の存在はどう解釈されるのか、一人称の視点から見た時に、「」内で書かれる会話とは何なのか、それを書いているのは誰なのか、その制約下でも主人公が「」で話すことができるのならばどういう場面なのか、そういうところを曖昧にしたくなかった。ただしこれも、機能は非常に限定的だった。機能を損なった原因はやはり、表現の身体性の欠如によるところが大きい。

6.心地よいものを書きたいという気持ちが、思ったよりも強くなっている。そういえば、自分が心を打たれた作品には、屈折の中にも気持ちよさがあった。そういうものを書きたい。チャンスは多くない。

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