和紙と輪郭とクソミソ

絵を買った。生まれて初めて買った。絵だけど、絵の具じゃなく、和紙をちぎり・切り・重ねたものに彩色して描いているものらしい。見た瞬間に、心地よいバランスを感じたのだった。絵全体の流れ・構成のバランス、曖昧さと明瞭さのバランス。『ススキと高尾山』という作品だ。

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和紙というのは、洋紙と違って繊維が壊れていない状態で固められている。だから手でちぎってほぐすと、境界部分の繊維がふわふわと外に向けて伸びてきて、ちぎった輪郭がモヤっと曖昧になる。逆に手ではなくカッターで切ると、境界部分の繊維が鋭く断ち切られるので、明瞭な輪郭が現れる。画面左下のススキはカッターで切られているのでその輪郭を明瞭になぞっていて、そこから右上へ伸びやや首を垂れる穂先に向けて徐々にその輪郭は曖昧になっていく。そしてその穂先への手触りの変化を受け止めるように背景の山々や手前の栗と思しき植物の輪郭も曖昧に収められている、その、流れが画面奥まで行き届いているのですごく立体感のある構図になっている、のと、虹をふりかけたような絵の具が画面左上から右下にかけて飛び散っていて、その軌跡がススキの穂先の角度と静かに連動して、その切り取られた躍動感の存在を裏で支えている。曖昧でいて、なのに全てが確かに存在していて、明瞭さと気持ちよく呼応していて、お互いを打ち消すことなく各部が絵全体を支えている、ように、僕には確かに見える。絵の流れ・構成のバランス、曖昧さと明瞭さのバランス、それが非常に美しい作品だと思った。

そういう文章を書きたいのだと思う。だって生活は曖昧だ。「今日一日の出来事を書いてみましょう!」とnoteは馬鹿みたいに煽ってくる。でも、文章に落とすということは、出来事の輪郭を切り取るということだ。その境界部分に確かに曖昧に存在していたはずの繊維を断ち切り、文法と常識で形取った「出来事」に収めるということだ。かと言って、曖昧なものを曖昧なまま存在させ続けるのは難しい。なんか今日はワーーッと気分がなって、クソミソのミとラというような半生でした、に熱量を与えるのは技術が要る。明瞭は曖昧を支え、曖昧は明瞭を包み込まなければ、そのバランスが正しく成立しなければ、画面は完成しない。その難しさに悩んでいる時に出会った絵だった。だから僕は、そういう文章を書きたいのだと思う。

生まれて初めて、良い絵を買ったと思う。アイホーンではうまく写真を撮れず、画面の鮮やかさが伝わらないのが残念。

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