見出し画像

ポケットモンスター マナ&カナ

読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?
絶対に嫌です。

ラテの泡が消える時、消えていくのを眺めている時、どうしてあんなにも時間の流れの残酷さを思い知らされるのだろう。人生に大して影響を及ぼさないような小さな出来事だけど、かと言って全く気付かずに素通りできるわけでもない出来事、それがラテの泡の消失。どうでもいいことのくせして、「ああ、確実に何かが終わってしまった」と実感させてくるのがいやらしい。時間って大体そういうものだ。​ラテの泡は時間だ。時間を淹れ、時間を買い、時間を飲んでいるのか僕は。気持ち悪い。ラテなんか一生頼まない。

太陽系の惑星は、太陽からのエネルギーを受けながらぐるぐる回っている。キャンプファイヤーみたいだ。昔、キャンプファイヤーってやったな。何なのキャンプファイヤーって。火燃やして。何なの。なんかロマンチックだね~みたいな演出を先生たちがしていた気がする。そんで終わった後、一気にロマンチック度ゼロで部屋に戻らされた気がする。何なの。惰性なの?

ユーリウス・ポウルスンの『夕暮れ』という絵を観た時は衝撃を受けた。それは、記憶の中にある夕暮れだった。記憶の中にある夕暮れというのは、どこか躊躇した足取りで脳内に現れるものなのに、その絵の夕暮れは記憶の中の夕暮れを完全に描き切っていた。脳みそが直接キャンパスに転写されたようだった。マッチングアプリで知り合った、美術館好きだという人と一緒に観に行ったのに、その人はほとんどまともに絵を観ずに会場を通り過ぎて行った。美しくない記憶ほど、克明になぞってしまうのはなぜなのだろう。その人ともう一度会おうとは全然思わなかった。

カバンをみんなが持っていることに、恐怖を感じたことがある。高校の頃の友人たちとショッピングモールをぶらぶらしながら、大して物欲も無いのに色んな店に出たり入ったりして、商品の値段を見て高いだの安いだのあーだこーだ言っているその、肩には必ずカバンがかかっている。彼にも、彼にも、彼にも、彼にも、僕にも、カバンがある。こわい。それはきっと、彼らそれぞれにとって多少なりともお気に入りで、店頭で「これなら買ってもいいな」と多少なりとも思ったカバンだ。お気に入りだから、お出かけの時に持ってきているのだ。言ってみればポケモンだ。自分のお気に入りのカバンで、勝負。みんなと勝負。カバンのつるのムチ!カバンのつるのムチ!カバンのつるのムチ!こうかはばつぐんだ!こうかはばつぐんだ!こうかはばつぐんだ!カバンはたおれた!カバンはたおれた!カバンはたおれた!めのまえがマナカナになった!カバンに乗っ取られているんだろうか僕らは。カバンに所有されているのだろうか。

ナンプレって語感が好きじゃない。数独もなんか孤独感を纏っていて嫌い。これからはナンバープレイスって言う。ナンプラーのことも、ナンバープライスって言う。

「宇宙」をなんでもかんでも神秘と結びつけるのは好きでない。仕事場に変な感情を持ち込みたくないんだと思う。とか言いながら自分は思いっきり宇宙の話でなんかエモっぽいエッセイを書いている。でも違うんだ。宇宙は目を瞑って感じるものではないんだ。「あなたの心の中にあるのです」、ありません。宇宙はこの目で見るものだ。手を伸ばすところだ。見上げるものだ。祈っている場合じゃない。見ろ。遠いところにあるものを、目を細めて美しがっていたってその先に進めるものか。ユーリウス・ポウルスンの描いた、あの夕暮れの、克明な眼差しなのだ、必要なのは。

人と話したいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?