啓く側でいいのか


蒙*を啓く、自分の知識を誰かに伝えること、広める生業は数多くあります。
教員に限らず、企業向けの講師、受験産業、質を問わなければSNSでもよく見かけるようになりました。

あげく、メガホンを持つためのノウハウが体系化されて「私をフォローするメリットは…」とか「続きはリプ欄で」とか記号になっているのを見ると、これを主な情報源とする人もいるのか……とちょっと落ち込みますが、それはそれ。情報の非対称性の話はまたいずれ……

今回は啓く側が、(広義の)政治的に立場の優位性があるとして、じゃあそのままそっち側にいていいのという話がしたいです ※相も変わらず恨み言です

それは例えば審判で、観客で、プラットフォーマーで、教師で、パトロンで。当然のことながら、それらの役目を負った人達は、相応の対価のもと実務に従事しているわけで、そこには違和感もへったくれもないです。

引っかかるのは、啓く側の一部が「教わる側」に回る気がないように見えるなあ、ってことと、政治的な優越感に浸っているように見えるときがあることです。

ここで着目したいのは、例えば先生方が学習指導要領の改定に伴って/定説の更新に伴って新たにインプットを行なっている、ような「職務上必要なため行う学習行為」ではないです。

他の例として、コンサルタントが自分の顧客の業務に関わる法改正についてリアルタイムでチェックする、のも対象外です。そういう必要の地平から外れたときに、果たしてどれほど正座する側、指南される側に回って、どれだけ自分の蒙を啓いたのか。それがぼくの喉元にひっかかっている違和感です

より文脈づけするために説明すると、表面上の立場云々(教える/教わる側のバランス、ポジション)がメインではなくて、内実として、ずっと教える側/広める側/指南する側に回っているあなたの時計は止まってしまっているんじゃないのか、という話。

当然、この話はそもそも、在り方レベルの議論を赤の他人が外からふっかけている時点で余計なお世話、越権行為です。したがって、行動を見直してほしいとか、そういう"啓発"をしたいわけではなくて、あくまでも「個人的に引っかかるけどなあ」「あなたはそれでいいのかしら……?」ってお気持ち表明のレベル。

そして、引っかかるポイント後半が政治的優越性の部分。教える行為は当たり前に気持ちよくて、その感覚にどこまで自覚的なのか、そこそこ気になります。

この辺りは今回の話の中でも特に主観的な見方が強いですが、仮にどこかの層に刺さるよい話※があるとして、「世の中に広めたい」スイッチがどこで入るのか、ぼくは結構懐疑的です

※自明ですが、経済的合理性を除いたとしても、政治活動みたく多人数を巻き込むこと自体を目的として成立するアウトプットは例外です

啓くことそれ自体の専門性も高く、独自のノウハウもあるし、社会的意義が高いことなんかははなから承知しているのですが

アドバイスする側、指摘する側、石を投げるだけの側、かつ
学ぶ側の成長痛を感じる機会すらもなくなった人間が、どこまでその政治的なパワーバランス(優越感という果実)に意識的なのか、ぼくは疑問に思ってしまいます

監獄実験の話ではないですが(クリシェですみません)、企業の調達部門にいる人間の態度が粗雑になる話と通ずるところがある気がします

啓く側になることがあっても、ロールプレイはほどほどにしたいですね


*繰り返し蒙との言葉を使っていますが、不快に思われる方いましたら大変申し訳ないです。

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