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ワインとアンビバレンス

ボージョレの季節、それは、日本人のアンビバレントな内心が逆撫でされる季節でもある。

素直に受け取れない、というか、どうやって素直に受け取って良いのかが、わからない。本当は、わからなくても別にいいし、楽しみたいように楽しむのが一番なんだけど、過剰な自意識が戸惑いを生み、戸惑いが自意識過剰を加速させている。

第一の戸惑いは、(その崩壊も含めた)バブルの記憶だ。田舎者の成り上がり。金満趣味。はしたない大はしゃぎ。一体あれから僕たちは何かを信じてこれたのかなぁとスマートに懐古するにはまだ生々しい、国民的な心の傷跡。
これが直ちに導くのは、果たしてその実質を理解しているのか、あるいは虚像的なブランドに惑わされているだけなのか、という議論である。ボジョレーボジョレーとありがたがる人たちは、ただ踊らされているだけじゃないのか。
もしかしたら、昔はそうだったかもしれない。しかし我が国においてワインの受容レベルは実に深いレベルに到達している。

ただ、(ワインも人も)本物なのかそうじゃないのか、見分けることは難しい。周回遅れで同じように見えるだけ、なんてこともある。こうした構造が、マウンティングの無限ループの発生装置として機能している。
「育ちか才能か」「教養か感性か」「自然体か背伸びか」・・・粋と、粋がっているだけとでは、天と地ほどの違いがある。自尊心を深く傷つけてしまいかねない地雷原が、そこにはある。

ヤフーニュースを眺めていたら、実に味わい深いコメントを見かけた。

ワインに精通している人間なんて、ほんの一握り。
ほとんどの日本人は、その時飲んだワインの味が好きか嫌いかの判断くらいしか出来ないだろう。
今年の出来は、去年と比べてどうこう言ったって、去年の味は忘れているし。
値段が高けりゃ旨いってわけでもないしね。
個人的にはボジョレー・ヌーボーは、高いと思うし、酸っぱ過ぎて好きではない。
ここまで大騒ぎする事自体が不思議。

なんのきっかけかは忘れたが、「よし、こうなったらもう、徹底的にワインを飲もう」と決めて、4ヶ月で120本ほど飲んで、深く実感しつつある真理がある。
それは、「その時飲んだワインの味が好きか嫌いかの判断」ができる、という人は、実は、ものすごくハイレベルで通な飲み手である、ということだ。そして、それは、特別な才能や教養、知識の問題というわけでもない。

単純に、経験量の違いであるだけだ。

毎日毎日、米を食べていると、嫌でも「その時食べた米の炊き具合が好きか嫌いかの判断」はできるようになる。毎日毎日、映画を見ていたら「その時見た映画の雰囲気が好きか嫌いかの判断」はできるようになる。毎日毎日、妻や夫の顔を見ていたら、「その時の機嫌がいいか悪いかの判断」はできるようになる。

考えてみたら、ワインに限って、大して飲んだ経験もないのに、好きか嫌いかが判断できるようになる道理など、ないのである。

多くの日本人は、「ここまで大騒ぎする事自体が不思議」と言いながらも、なんだかんだで気にはなるし、そこにボージョレが、あったらあったで飲んじゃうわけであり、実にアンビバレントな屈折がそこにはある。
たぶん、その扉を開けたらその向こうには、魅力的な世界が広がっていることは薄々気づいてはいるのだ。しかし、そこに一歩踏み出すのは、なんとなく面倒だし、面映いし、面白くない。そういう心理なのではないか。

「ボジョレーは」と大文字でくくっているあいだは、なにも見えていない。「値段が高けりゃ旨いってわけでもない」「今年の出来は、去年と比べてどうこう」なんて、真実らしき一般論を隠れ蓑にして、わかっている風を装っても、駄目だ。断片的に聞き齧ったことを並べて見せても、そんなふうに言うのは、粋がっているだけなのが逆に明け透けになってしまっている。それはやっぱり、野暮なことだ。

野暮であることは悪いことではない。野暮は粋への入り口だ。しかし、その扉を開ける前にうだうだやって野暮で留まり続けるのは、それほど野暮なこともない。

手間ひまをかけることや、基礎から学ぶこと、あるいは投資や経費をかけることを吝しみ、表面だけ取り繕い、通ぶりたがり、粋がることは、野暮も野暮、野暮の極地である。

ちなみに、「値段が高けりゃ旨いってわけでもない」はほとんどの場合、成り立たない。値段が高いものは、ほぼほぼ例外なく、美味しい。不運がたまたま重なってしまうことも、ないとは言えないけれど。値段が高いのに旨くないと感じるのは、飲む側の問題なのである。もちろん、客観的な相場感というものがあって、個人的な価値尺度に対して高いかどうかとは、これは別問題である。また、希少価値が加熱した高騰現象も、もちろんある。そうした個別の異常値はもちろんあるわけだが、マクロに、長期に見ると、値段と味は極めて密接な相関関係にある。

自分がそういうふうに捉えるようになったのは、「4ヶ月120本」の修行の結果である。そして、それはほんのとば口にしか過ぎず、世の中には途方もない経験者がごろごろいるということも、わかってきた。あんまり途方もないから、どこまで行くかなんて、想像もつかない。まぁ、のんびり行こうとしか、今のところは。

ありとあらゆるものごとに精通するのは不可能だ。世の中、奥の深いものはいくらでもある。蕎麦もいいだろう、映画もいいだろう。アイドルだって構わない、山でも、食器でも、Wordだろうが Excelだろうが、俳句でも気球でもいい、野球でもカバディでも、あらゆるものごとには、野暮という名の入り口と、粋という名の秘密の花園がある。何について精通するか、どこまで精通するかは、自分にとっての優先順位がどこにあるかというだけの問題である。

もやもやしてる暇があったら、しのごのいわずに、飛び込めば良い。話はそれからだ。たったそれだけで、良い。それこそが、野暮が粋に転じる瞬間なのではないか。

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